幸竜と怨竜
老婆は、再び口をもぐもぐさせた。
「幸竜は、竜神の慈悲じゃ。怨竜は、竜神の怒り。竜神は、われらにとって、恵みをもたらせることもあれば、滅びをもたらせることもある」
老婆は、水鏡の上に、指で何かを描いた。
「はるか四百年前、この地に幸竜が降り立った。火山灰に埋められた地を草木で覆い、森となって、嘆き悲しむ民を温かく包んでくださった」
「四百年前なら、ファラは見ていない時代だね」
シエロは、隣のファラへ囁いた。無言で、ファラはぎこちなく頷いた。
視線を感じたシエロは、老婆に向き直ってドキリとした。鋭い眼光で見つめられていた。
戦慄きながら、何かおかしなことを言ったかと尋ねようとしたが、その前にシドが老婆へ尋ねた。
「俺たちは、八百年前にビューゼント王国の始祖王が竜と会った伝説しか聞いていないけど、竜ってのは、そんなにちょくちょく現れるものなんですか」
「世界は、ぬしが知っているより広いのじゃ。人の悲しみが地に染み、水に流れ、音にのって空に満ちる。その時、竜は現れる」
地と、水と音、空。シエロは、心の中で反芻した。
「じゃあ、星読みたちが竜の出現を予言するのは、悲しみが満ちたことを星が教えてくれる、てことなのかな」
「いいや。星読みの術も、魔導力と同じで北の力じゃ。ステラシアの民は、ただ、空の張りを感じるのみ。それを、星と重ねて進言しておるだけじゃ」
炭火の火にあたるように、老婆は水鏡へ両手を翳した。
「地と水は染まり、空は張り詰めておる。竜神は、じきに降りる。じゃが、それが幸竜となるか、怨竜となるかは、竜神が決めること。どちらの涙が降るか、それは、我らの積み重ねた業の結果じゃ」
ふいに、老婆の口は横へ伸びた。輪郭の幅いっぱいに引き伸ばされる。
「どちらになるか、楽しみじゃ。のぅ、シエロ・ムジカーノ」
まっすぐ射る視線に、シエロは血の気が引いた。老婆は、個人的な感情からか、もしくはピチカの民を代表してか、裏切りの民ムジカーノに恨みを抱いているのだろうか。言葉の端々に、鋭さが込められていた。
シエロの怯えを察したシドとレミが、ほぼ同時に膝を立てた。両側からシエロを守ろうとする姿勢に、老婆はころりと表情を変えた。
「まあ、良い。本来の目的地は、ウェスタじゃったな。一日も歩けば着ける。案内させよう。タクト」
部屋の暗がりへ老婆が声をかけると、短い返事が聞こえた。シエロと同年齢と思われる青年が、松明の灯りの届くところへ歩み出た。
「街道まで、案内するのじゃ」
「かしこまりました、大婆様」
恭しく礼をすると、タクトは兵士にシエロたちの荷物を持ってこさせた。
老婆を睨みながらも、シドとレミは荷物を受け取った。ファラもまた、ふたりと荷物の仕分けをしながら部屋を後にする。
部屋の出口で、シエロは、壁に掛けられた竜を振り返った。顔の周辺に描かれた、白い丸と黒い丸。それらが、老婆の言う竜の涙なのか。
見上げているうちに、竜がゆらりと動いた気がした。目を擦る。カタカタと、扉が揺れた。
突如、足元から、突き上げられた。建物が軋む。天井から埃や砂が落ちてきた。
「地震じゃ」
老婆も、口を半開きに宙を見上げた。残っていたふたりの兵士が、松明が倒れないよう押さえた。
揺れは続いた。おさまるかと思えば、思い出したように大きく揺れる。
カツンと、上のほうで音がした。ハッとして見上げると、竜の織物を吊るしている金具が外れていた。織物がゆっくりと落ちてくる。
「危ない」
咄嗟にシエロは、水鏡を飛び越え、老婆に覆いかぶさった。織物の角を補強する金具が、左の肩を掠めた。頭から織物が被さる。
高い壁の一面を覆いつくす織物だ。重い。埃が舞い上がり、気管を刺激する。
重さに膝が震えた。こみ上げる咳を最低限に我慢しながら、揺れがおさまるのを待った。老婆は、岩になったかのようにじっと、無言でうずくまっていた。
ようやく、揺れがおさまった。
「シエロ様」
織物で遮られ、ファラの声が小さく聞こえた。外にいた兵士も戻ってきたのだろう。老婆を呼ぶ声や、作業を指示する声が飛び交った。
「ここだよ!」
シエロはめいいっぱい叫び、織物が圧し掛かる肘を上げた。膝も腕も、ガクガクと震え始めた。
織物の端が動いた。松明の朱色の光に照らされた床が見えた。みんなは、すぐそこに集まっている。しばらく、耐えればいい。
「お怪我は、ありませんか?」
シエロは、老婆に尋ねた。
低い笑い声が、懐の辺りから立ち上った。
「人のことより、おぬしの身を案じなされ。ほれ、膝が限界ではないか」
指摘され、シエロは奥歯を食いしばった。中途半端な態勢を保っているため、腰や背中も痛い。しかし、自分が倒れてしまえば、老婆も水鏡も潰れてしまう。
老婆の笑いを含んだ声が、再び暗い織物の中で聞こえた。
「しかし、魅入られたは、だからこそ、じゃろうのぅ」
聞き返したと同時に、周囲から掛け声が聞こえた。急に織物が軽くなり、力のやり場をなくしたシエロは多々良を踏んだ。老婆に躓きそうになり、慌てて踏みとどまる。
「シエロっ。もう少し頑張れ」
レミの怒鳴り声が聞こえた。兵士たちと、織物を折りながら除けようと奮闘している。
「大婆様も、無事だよ」
シエロもまた、声を張り上げて、咳き込んだ。普通の埃より、喉がザラザラする。
もう一度、掛け声が上がった。バサリと、シエロの頭に被さっていた織物が浮き上がった。
「……りには、気をつけられよ」
ふいに、低い老婆の声が耳元でした。耳朶のすぐ脇で囁かれたような、または、頭の中に直接伝わったような、響きのない声だった。
驚き、シエロは老婆を見下ろした。
「シエロ様っ」
「大婆様っ」
ファラと、タクトと呼ばれた青年が、同時に駆けつけた。
「「お怪我は」」
同時に、互いの相手の身を案じる。
老婆は、何度も頷いてタクトに答えた。
シエロは、立て続けに咳き込んで返事が出ず、安心させるように親指を立てて見せた。
「お薬を」
差し出される丸薬を口に含んだ。シドが、水袋を渡してくれる。
「体の埃を、まず払った方がいいんじゃないか? ていうか、着替えたほうが」
レミも、シエロの髪や服を叩いて顔を顰めた。三人に取り囲まれ、あれやこれやと世話を焼かれる。気恥ずかしくなり、シエロはひたすら、咳の合間で、大丈夫と繰り返した。
「あの」
タクトが、遠慮がちに声を掛けてきた。
「大婆様を守ってくださり、ありがとうございます。沐浴の用意をさせています。お体を、清めてください」
「あ、いえ」
辞退しようとするシエロを、シドとレミが前へ押し出した。
「では、お言葉に甘えて」
「沐浴、お借りします」
「え、でも、そんな」
出発が遅くなってしまう。うろたえると、ファラに止めをさされた。
「着替えはここに」
荷物を押しつけられた。剣幕の強さに、シエロは苦笑して頷いた。三人の気遣いが嬉しくもあった。
その様子を、老婆は、皺だらけの唇の両端を上げ、フードの下からじっと見つめていた。
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