敵ではない

 心持ち緊張した詠唱が始まった。シエロは、そっとレミへ声をかけた。

「もう、あまり影響受けない?」

「うん。これのお陰でね」

 レミは、髪を結んでいる紫色の紐を指差した。

 バザールでは、シドの詠唱によって、身動きもままならなくなったらしいが、護符としてもらった紐を身につけることで、緩和できているようだ。全く影響がないわけではなく、耳の先の毛だけは、静電気が起きたように逆立っている。

 詠唱の声が高まった。地面についた杖の石突きから、光の線が細く描き出された。足元に光が広がる。完成した魔方陣が、ひときわ明るい線となって四人を取り巻いた。

 うぉん、と耳鳴りがした。鼓膜が圧迫される。耳が痛い。シエロは両手で耳を塞いだ。

 魔方陣の光が強くなった。眩さに、目を瞑る。瞼の裏で、残像がチラチラと踊った。

「転移」

 力強い声と共に、シドの杖の石突が地面を打った。

 眩暈がして、シエロは隣に立つレミの腕を掴んだ。そのシエロの腕も、掴まれた。おそらく、ファラだろう。

 ゴォ、と海鳴りか山鳴りか、または強風が吹きすさぶような低い音がした。方向感覚が失われ、浮遊感に襲われた。息が苦しくなる。山賊に襲われ、川に落ちた、あの瞬間に似ていた。

 実際は、ひと呼吸の間だっただろう。ひどく長い時間に感じられた。

 足の裏が地面を踏んでいる実感に、シエロは詰めていた息を吐いた。ふき出した汗を拭い、瞬きを繰り返した。耳鳴りはまだ残っていて、周囲の音が聞こえにくい。

「成功、したの?」

 呟く自分の声も、くぐもって聞こえた。恐る恐る、周囲を見回した。

 シド、レミ、ファラ。人も荷物も揃っている。青葉が風にそよぎ、細い道が続く。山の峰の上では、翼を広げた鳥が悠々と旋回している。

 が、何かが、違う。

 シエロは、後ろを振り返った。

 あるはずの、土砂の山がない。代わりに、畑が広がる。

 青々と葉を茂らせる畝の間を走る、十数名の人が見えた。ふたりの男女を除いて、あとは兵士だった。兵士のひとりが、シエロたちを見上げた。なにか叫ぶ。

 次第に音が聞こえてきた。

「おい、あそこにも居るぞ」

 明らかに物騒である。男女ふたりは、「違う」「関係ない」と言いながら兵士に捕らえられた。

「大婆様の水鏡に問えば分かる」

 苦々しく吐き捨てながら、兵士たちは彼らに縄をかけた。

 小さな尾根を迂回するよう、連行していく。残りの兵士は、シエロたちを目掛けて走ってきた。

 青ざめたシドが、三人を庇うよう兵士との間に立ちふさがった。レミが剣の柄へ手をかける。

 制したのはファラだった。

「ピチカの兵です。敵ではありません」

「西に接する、小国か。どこにも与さない、中立国だっけ」

 小声で確認するレミへ、ファラが頷いた。

 確かに、東の空に噴煙が立ち昇っている。ということは、転移で国境を越えてしまったのだ。転移の方角は合っていて、距離の調整がうまくいかなかったのだ。

 シエロは、胸を撫で下ろした。全く違う場所に飛んだわけではない。敵対しているオーケスティンでもない。兵士が喋っている言葉は、ビューゼント王国と同じ、沿岸共通語だ。不穏な現場に居合わせてしまい、疑われているが、話せば分かってくれるだろう。

 完全に囲まれた。煌く槍の穂先を突き出しながら、兵士が鋭く尋ねた。

「お前達も、密偵か」

「いいえ。ビューゼント王国のウェスタへ向かう途中で、迷い込んでしまいました」

 出来るだけ穏やかに、微笑みながらシエロは答えた。敵意はない、安全な者だと伝えるため、軽く両腕を開いた。

 予想外に、兵士は怒気を露にした。

「ならば、お前達もさっきの奴らの仲間だな」

「え、違います。僕達はただ」

 敵ではないはずと、シエロはうろたえてファラを振り返った。

「敵でないものが、味方とは、限りません」

「それ、早く言ってよ」

 うな垂れるシエロを、兵士二人が挟み込んだ。抵抗しようとするレミを、ファラが再度制した。

「ピチカの水鏡は、素性を見通す力があると聞きます。大人しく問われれば、誤解も解けるでしょう」

 冷静に言いながら、ファラの顔は、こわばっているように思えた。

 シエロはひとつ深呼吸をすると、率先して兵士の言う通りに荷物を下ろし、両手を掲げて無抵抗を示した。シドも、兵士に向けて構えていた杖を下ろした。

 杖や剣を含む荷物を奪われ、後ろに回した両手に縄をかけられる。喉の奥で唸るレミへ、そっとシドが囁いた。

「いざとなれば、縄くらい解ける」

 マギクの町で初めてシドと出会ったとき、逃げる小猿を、シドは杖を持たず引き戻した。そのことを思い出し、シエロの不安は少しだけ弱まった。

 小さな尾根を回りこむと、森が広がっていた。斜面は緩急を繰り返す。細い道を、一列で歩かされた。森は、次第に深くなっていった。

 ビューゼントでは見たことのない木々が立ち並ぶ。聞いたことのない鳥の囀りが聞こえる。珍しさに視線を動かすシエロは、兵士に咎められ、俯いた。下を見れば見たで、道端には初めて見る草花が咲いている。

「ちょっと西に来ただけで、植物や動物って変わるもんだねぇ」

「尾根の数で言えば三つか四つですが、海風の影響を遮られていますし、高度も違います」

 すぐ後ろで、ファラが教えてくれた。

 隣を歩いていた兵士が、苦笑した。

「随分と変わったところに着目する密偵だな」

「密偵って、どういうことですか?」

 正面から尋ねるシエロに、兵士はさらに口の端を歪めた。が、彼が何か言う前に、前方の木々の間に建物が見えた。

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