ピチカ
転移魔術
翌日、朝早くに温泉宿を出発し、シエロたちは山道を下っていった。目指すは、王弟が管理するビューゼント王国西部の港町、ウェスタである。
昨日夕方の豪雨は、道中にいくつかの爪痕を残していた。
落雷による生々しい裂け目を見せる木や、道一杯に広がるぬかるみを、幾つも通り過ぎる。
半刻ほど下ったところで、一行は足を止めた。
「これはさすがに、どうしようね」
行く手を見て、シエロは呆然と呟いた。
崖が崩れ、狭い道を塞いでいた。道の両側は、切り立った崖だ。右側の崖が中腹から崩れ落ち、土石や倒木が積もっている。大人の背丈をゆうに越える高さだ。土石の上に広がる青空に、くっきりと白く噴煙が立ち昇っていた。ビューゼント王国西端にある火山の噴煙である。
シエロたち同様にウェスタへ下る人々も、落胆した表情で引き返してきた。そのうちのひとりを引きとめ、シエロは、これからどうするのか尋ねた。
その初老の男性は、両手のひらを上にして、肩のあたりまで挙げた。
「ウェスタ側から上る人が、役所に届けるだろう。そうすれば、土木業者が来て、片付けてくれる。それまで、温泉でゆっくり過ごすよ。こういうときは、格安で泊めてくれるからね」
同行を勧められたが、シエロは丁寧に断った。
「いいねえ。時間にもお金にも、困ってないんだなぁ」
ぼやくシドに、レミも苦笑いした。
「そもそも、そうでなければ温泉なんか来ないって」
男性は、戻りながら、後続の人たちに崖崩れを教えていた。他の人も、男性が示すシエロたちの方をみやると、頭を振って戻っていく。
だが、シエロたちに時間はない。
「どうする」
「これを越えるのは、難しいよね」
レミに問われ、シエロは積もった土砂をブーツの先でつついた。軽く載せただけで、爪先がめり込む。柔らかく積もった小山を越えるのは、賢明でない。
「この辺りの回り道も、峠越えになりますからね」
ファラも、さすがに打つ手がないとみえ、頭を振った。
重苦しい沈黙が流れた。小鳥が囀り、羽虫が飛ぶ。実に穏やかな夏の朝なのだが、四人は口を閉ざし、土石の山を見つめていた。
おずおずと、シドが口を開いた。
「転移、するか」
「出来ますか」
平淡なファラの口調の裏に、一抹の不安が感じられたのは、シエロの考えすぎだろうか。
当のシドも、自信があるわけではなさそうだ。口の両端を下げ、頭を掻く。
「転移自体は、昨日もやったけど」
「全然、平気だったよ。あの調子でやれば」
酔客に絡まれたシエロたちの元へ、レミを転移させてくれたのは、他ならぬシドだ。早速乗り気になるレミに、シドはまだ煮え切らない表情だった。
「問題は、人数なんだよな。四人ってのが」
転移させるものが増えれば増えるほど、そして、距離が伸びれば伸びるほど、術の精度を問われる。体力も気力も使う。
「まあ、でも、この土砂を越えるだけでしょ。まさか、ウェスタまで道がなくなってるわけじゃないだろうし。いけるんじゃない?」
屈託なく、レミは首を傾げた。半ば呆れた溜息をつき、ファラはレミの腕に荷物を載せた。
「念のため、確認してきます」
「ありがとう。こういうときのファラだよね」
相変わらず明るく言い放つレミを、ファラは半眼になって見上げた。
「服、汚れないように受け取ってください」
「了解。任せて」
なんとなく、昨日までより親密さが増している気がする。
微笑ましく見守るシエロの前で、ファラは鳥となり、残された服が地面へ達する前に、レミが受け止めた。
白い小鳥は、土砂の山より高く舞い上がると、すぐさま戻ってきた。
レミが、片腕に服を広げて掲げる。小鳥から人型へ戻る直前で手を離すと、ファラが軽やかに着地した。
「崩れているのは、ここだけです。ほんの数十歩行けば、その先はしばらく大丈夫です」
髪を整えながら、報告してくれた。
「じゃあ、行ってみるか」
シドは、ちらりとシエロを見た。シエロが見上げ返すと、気まずそうに目を逸らす。ボソリと、付け加えた。
「この調子だと、王都に戻るんは、転移になりそうだもんな」
一瞬シエロは、心臓が止まったかと思った。
建国祭まであと十一日。ウェスタから王都まで、陸路では一ヶ月かかる。海路で二日。商船に乗せてもらうことを考えていたが、懐にあるお金では、一人分の運賃しか払えない。お金の心配をせず、全員で建国祭に間に合うよう王都へ戻る方法があるとしたらそれは、シドの転移魔術しかなかった。
内心シエロは、この期に及んで、王都へ戻るのは自分だけにしようと考えていた。金銭的な問題や、シドへの負担の軽減もあるにはあった。それより、レミとシド、ファラまで王の刃の前に出る必要はないと、考えていた部分が強い。
「ばれて、たんだ」
笑って誤魔化そうにも、頬が引きつった。
「シエロ」
シドに肩をつかまれ、シエロはびくりと身をすくませた。真っ直ぐ間近から顔を覗き込まれ、喉から小さく呻きが漏れ出る。
しばらく怒ったようにシエロを睨んでいたシドが、掌を返したように破顔した。
「嘘つくのが下手なんだから、もう、誤魔化しっこはナシだぞ。少なくとも俺たちには、不安でもなんでも、正直に言えよ」
「そうそう。ほんと、人のためなら演技力もあるのに、自分のこととなったら、バレバレなんだから」
レミもまた、腕を組んでニヤニヤしている。
シエロは、熱くなった顔を袖で擦った。
「そ、そんなに?」
「まあ、それが、シエロ様の良いところです。分かりやすくて」
ファラまでもが、揶揄するように首を傾げた。
肩の力が抜けた。苦笑して、シエロは、今度は照れくささから頬を緩めた。
「えっと。じゃあ、とりあえず今は、不安だけどシドに転移魔術をお願いしようか。練習ということで」
「よし。出来るだけ、近くに寄ってくれ」
杖を構え、シドは背筋を伸ばした。そしてふと、空のどこかを見上げた。
「そういえば、俺自身が転移するのも、初めてだな」
不安が、ムクリと大きくなった。
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