竜の湯 女湯編
男湯の方から、楽しそうな笑い声が響く。
「何をやってるのやら」
呆れ顔で、レミが呟いた。肩まで湯に浸かり、頭部だけ湯面から出ている。対するファラは、やや浅いところで腰掛け、腰から下だけ湯に浸かっていた。
笑いすぎたシエロが、咳き込むのが聞こえる。ファラは、小さく溜息をついた。
「発作を起こさなければいいのですが」
「保護者は、大変だね」
苦笑したレミは、でも、と続けた。
「初めて聞いたよ。あんな楽しそうな、シエロの笑い声」
ファラが顔を上げた。耳をすませる。
湯飛沫の音がする。合間で互いに挑発し合い、笑いが起きる。
シエロが、笑っている。
「そう、ですね」
手を伸ばし、ファラは湯の表面を指先でかき回した。波紋が広がる。その小さな波紋を壊すように、大きな波が近付いた。
ファラが背を預けている湯溜まりの縁へ、レミが両肘を掛けた。そこへ、顎を載せる。
「昼のは、ごめん。シエロにもファラにも、要らない気を遣わしちゃったね」
無表情に、ファラはレミを見下ろした。
湯に漂う灰褐色の髪が、波紋に合わせて揺れる。ファラの無反応に頓着せず、レミは目を閉じた。
「今まで、何をするにもひとりか、それか、誰かを采配するばかりで。シドにしても、そのつもりだった」
灰褐色の睫毛を持ち上げ、レミは苦笑した。
「父や兄に認められたいってのも、本心は、私が上だと認めさせたいだけだったんだな。川に落ちたシエロを引き上げるとき、なんにもしないシドに苛立って、なんで何もしてくれないんだって思って、そんとき、無意識に頼ってることに、気付いたんだ」
小さく笑うと、レミは体を伸ばした。背中、尾、脚が湯に浮く。
「そしたら、無性に悔しくてさ。敵わない相手って、いるんだって。どっちが上って話じゃなくて、別の次元で、凄い人が。さっきだって、シドはシエロの様子が変なのに気が付いて、魔術で追跡していた。シエロだって、自分じゃ何も出来ないって言いながら、あんな真っ直ぐに優しいのって、そうそうできるもんじゃないよ」
レミは、鼻まで湯に浸かった。ぶくぶくと、泡が浮き上がる。しばらくして顔を出すと、レミはフウッと、目の前に上がった湯気を吹いた。
「シエロやファラ、シドに出会えたことで、見えてきたことがたくさんある。ほんと、感謝するよ。自分がひとりじゃ何も成せない存在だって気付けたのは、ちょっと悔しいけど」
しばらく、ファラは首を傾げて若い女の獣人を見下ろしていた。が、自分の足元へ視線を落とした。片膝を伸ばす。湯の中に、ユラリと片足が浮かんだ。
「ひとりで出来ることには、限度があります」
その言葉は、レミに対して発せられたものであったが、ファラ自身の呟きのようでもあった。ファラは濡れた手で、艶のある白髪へ指を通す。
ふと、レミは眉を上げた。
「あれ。おでこのとこ、怪我?」
ファラは額の生え際を押さえた。普段は、髪に隠れるところだ。
心配そうに眉を顰めるレミへ、ファラは首を横に振った。
「古いものです。今日に出来たものではありません」
「よかったぁ」
レミは、仰向けに浮かび、大の字になった。
「あの酔っ払いに、何かされたのかと思った」
「シエロ様が、途中まで対処してくださいましたから」
「ほんと。正直、びっくりだった。強くなったなぁ、シエロ」
わざと、レミは声を大きくした。男湯のシエロに聞かせる目論見だろう。だが、岩のあちら側は、いつの間にか静かになっていた。
あがったのか、と呟くレミに、ファラは小さく頷いた。
「本当に、お強く、逞しくなられました」
「寂しい?」
湯溜まりの中で座り、レミは悪戯っぽくファラを見上げた。
ファラは、ぎこちなく首を傾けた。
「寂しい、とは」
「なんか、子供が大きくなって独立していくときの、親の顔してたよ」
からかうような口ぶりだった。
ファラは、指先で、自分の顔をあちらこちら触った。
「特に、変わりはないようですが」
「もう。真面目だな」
くくく、と喉を鳴らしてレミが笑った。が、ふと真顔になる。
「でも、本当に、寂しくないの? 鳥人って、ひとりなんでしょ」
「別に。多種族の間で生活していますから。ただ」
しばらく、ファラは足首を上下させた。広がる波紋を、見るともなく見る。
「シエロ様には、関わりすぎたと。それは、自覚しています」
「別れるのが辛くなる?」
レミの問いかけに、ファラは、また黙った。
レミは、空を見上げた。雲ひとつない藍色の空に、星が輝いている。そのうちのひとつへ、手を伸ばした。
「どうしたって、シエロや私達のほうが先に死んじゃう。その後もずっと、ファラは、他の誰かと生きていくんだよね」
「それが、長寿種としての、定めですから。でも」
言いかけ、ファラは口を閉じた。口元へ曲げた指の関節を当て、しばらく湯面を見つめた。やがて、大きく溜息をついた。
「シエロ様のことは、忘れられないでしょうね」
空へ掲げたレミの手が、ゆっくりと下りた。
「そうだね。忘れないよ、私も」
下りながら、レミの手は、何かを掴むように閉じていった。最後に、小さな飛沫を上げて湯に入る。湯の中で、レミは両手を広げた。緩やかな波紋が広がる。湯の面を優しく揺らした波紋はやがて、溶け込むように消えていった。
「忘れられないよ、きっと」
黄緑色の目が、ふわりとファラを見上げた。
「ファラのことも、ね」
ファラは開きかけた口を、閉じた。黒目がちな目を伏せる。ごくわずかに、気のせいかと思うほどに小さく、首を縦に振った。
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