竜の湯 男湯編

 他の湯治客は、もう眠りにつく時間だった。それでも『竜の湯』は開いていた。誰でも好きな時間に入れるのも、この湯の売りだった。

 ランプの灯りに、丸いふたつの湯溜まりが、ひっそりと浮かぶ。天然の岩を穿った湯溜まりの間は、張り出した岩で遮られている。右が女湯、左が男湯と、案内が出ていた。

 シエロは先に体の泥を拭いていたが、肌の表面はまだ、ざらついていた。シドにいたっては、マントと上着を脱いだだけだ。

 洗い場で全身を石鹸で洗い流すと、ようやく人心地つけた。

 シエロは、シドと並んで湯溜まりへ浸かった。少し熱かったが、浸かっているうちに、染み込むような熱が心地よくなってきた。

「はあ。生き返る」

 シドが、湯の中で手足を伸ばした。緩やかな波がたつ。 

 目の前を横切るシドの腕を、シエロはしみじみと眺めた。

 全体的に、角ばっている。筋肉の線が、はっきりと浮き出ていた。しなやかなのに、弾力があって硬そうだ。

 そっと、シエロは指を出した。目の前に留まる腕を圧してみる。

「うひゃ。何だよ、いきなり」

 驚いて、シドが腕を引いた。湯の飛沫が上がり、シエロの顔を直撃する。吸い込んでしまった湯にむせて、咳き込んだ。

「ごめん、ごめん。いや、どうやったら、シドみたいになるかなって」

 キョトンとしていたシドが、ああ、と腕を摩った。波紋を作りながら、シエロに近付く。シエロの肩や上腕、背中をつまんだり圧したりした。

「けど、シエロも俺たちと筋トレするようになって、ちょっとは硬くなってね? 腹筋だって、最初は全然上がってこれなかったのが、今朝は三回できたし」

「うーん。シドとレミが凄すぎて、実感ないけど」

 腕を湯から出して、拳を握る。肘を曲げる。だが、上腕は滑らかなままだ。盛り上がってくるものが、全くなかった。

 シドが、片方の眉を上げた。

「手、もう大丈夫なのか」

「あ、うん」

 ソゥラについて話すべきかと考えたが、シドがあっさり安心したように頷いたので、やめておいた。

 再び、シドはシエロから離れると、ザブリと湯溜まりの縁へもたれた。どうやら、そこが座りやすいようだ。

「悪かったな」

 ポツリと、シドが謝った。

「え」

「すぐに、助けてやれなくて」

 降りしきる雨の中、恐怖に囚われたように立ち尽くしていたシドを思い出した。

 シドは、おもむろに腕を上げた。湯溜まりの上を渡る風を触るような仕草だった。その手を下ろし、赤い髪を掻きあげた。

「妹も、飲まれたんだ。濁流に」

「妹?」

「ああ。元々、俺がいた世界で。こっちの世界に来る直前に。単純な年齢で比べりゃ、シエロと同い年で、やっぱり、黒くて長い髪だった」

 両手に湯をすくうと、シドはザブリと顔にかけた。俯いた鼻先から、雫が垂れる。

「あの日も大雨でさ。予報を上回る雨になったんだ。妹は、具合が悪くて休んでいた。おれも昼から休校になって、警報が出てる中、ずぶ濡れになりながら帰った」

 シエロには分からない言葉が並んだ。だが、聞き返せない雰囲気があった。ただ、黙って聞いた。

「妹からは、避難勧告出たし、避難した方がいいかって、連絡きてたんだ。出勤してた親も、不安がってた。だけど、俺は、学校あるくらいだから大丈夫だろうって。返信したんだ」

一度言葉を切り、シドは息を吐いた。

「家に着いて、ちょうど、そん時。よりによってそん時にさ。揺れたんだ。その地震で、堤防が、決壊した。水が、信じられないくらい流れてきて、あっという間に、そこらじゅう水浸しになって」

 再び、シドは大きな両手に湯を掬った。顔に掛ける。その手を、今度は顔から離さなかった。

「普段さ、そんな仲いいわけでもなかったし、むしろ、うざがられてたけど。お兄ちゃん、て、助けを求める妹に、俺は、手を伸ばすことすらできなかった。そのまま、泥水ん中に沈んでいく百美を、バカみたいに突っ立って、見ていた」

 濁流に吸い込まれる、長い黒髪。

 シエロは、肩に張り付いた自分の髪を見下ろした。

「モモミ、て、妹さん?」

「そ。それを、あの狼女、ケモ耳とか聞き間違えやがって」

 シドは、再度手を上げた。

「こっち、風下だよな」

「う、ん。けど、聞こえてるかもしれないけど。ていうか、それは、レミだって、説明すれば分かってくれるよ」

「まあな。けど、それで、シエロにも嫌な思い、させちまったな」

 シドは、湯の中で両手を組んだ。大切なものを包み込むような手だった。それを、勢いをつけてすぼめた。

「ひゃ」

 飛び出した湯が、シエロの顔面を濡らした。

「少なくとも俺は、この旅の終わりまで見届けるって腹をくくったんだ。もう、勝手に、ひとりで黙って出て行くなよ」

「うん、ごめん」

 うな垂れると、また湯をかけられた。両手で顔を擦る。擦って水気が切れたところに、またかけられる。繰り返すうちに、だんだん楽しくなった。

 シエロは、丸めた掌に湯を掬った。シドへと放る。

 眉間に湯を食らったシドが、恨めしそうに、だが笑いながら肩で目を擦った。

「あ、くそ、やられた」

「反撃っ」

 ざばざばと、立て続けに湯を掬っては投げた。

「なにをっ」

 シドは中腰になった。両手の先を湯につけたまま、左に引く。シエロは、慌てて体をよじった。シドへ背中を向ける。表面を削るように押し出された湯が、肩にかかった。振り返ったところに、また、シドの構えが目に入った。

「わ。やめ」

 勢い良く湯が飛んだ。同時に、シドが叫び声をあげる。足を滑らせ、湯柱を立てて倒れた。

「ちょ、シド」

 慌てて駆けつけようとしたが、シドはすぐに顔を出した。その、間の抜けた顔に、シエロはふき出した。腹を抱えて笑う。

「笑うな」

 怒鳴りながら、シドも大口を開けて笑っていた。

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