酔客との攻防
男が、ギロリと目をむいた。
「あぁん? 邪魔しようってのか?」
呂律が回っていない。かなり酔っている。話して引いてくれる相手ではない。
周囲の店の人たちは、ある意味慣れているのだろう。ちらりと横目で見ただけで、自分たちの仕事を続けた。助けてくれそうな人はいない。
ジリジリと、シエロはすり足で動いた。向きを変える背に合わせて、ファラも動く。出来るだけ、ファラを宿に近づける。
酒でトロンとした男の目に、迫力はない。近衛騎士に扮したレミの怖さを思えば、比べ物にならない。だが、あの時は、打ち合わせたうえでの演技だった。
どう動くか分からない男を前にして、シエロの額に汗が浮かんだ。槍の柄を握る。頭の中で、毎朝シドに教えてもらっている型を思い出す。
いきなり、男は腕を突き出した。瞬時に、考えていた型が消し飛んだ。頭の中が真っ白になる。ただ、我武者羅にしゃがんだ。
男の拳は、偶然宙に残っていた槍の柄に当たった。振動で、シエロはよろめいた。
「くそ」
はずしたことで、男もムキになった。再び拳を引く。狙いを定めてきた。
落ち着いて、と、シドの声が聞こえた気がした。シエロは、短く息を吐いた。槍の柄を、体の前で水平に構える。左の手は下から、右の手は上から、軽く持つ。
男が引いているのは、左の肘だ。
唸りをあげて、男の左拳が迫った。
目を閉じてはいけない。必死に恐怖と戦った。左の拳を、軽く開く。手の小指の側で槍の柄を右へ押した。右の手の甲をまたぎ、槍の柄は勢い良く回転する。突き出された男の手首を強打した。
跳ね返った槍の柄を、すばやく左手で掴む。両手に持ち替えた槍の柄の先を、男の顔へ向けた。
本当なら、そのまま緩く支える左拳の内側を滑らせるように、右手を押し出して突く。だが、力が抜けて、型の通りにできなかった。
男がゆらりと近付く。かなり頭にきている。次の攻撃が繰り出されたら、掴まる。
と、足元に青白い光の線が走った。曲線と直線、ジグザクの線が合わさり、魔方陣となる。瞬きをする間だ。男との間の地面に、レミが立った。
「は?」
呆気にとられた男はそのまま意識を失った。その顔に、レミの拳がめりこんでいた。果たして彼は、怒りに燃える黄緑色の瞳を見ることができたのかどうか。鈍い打撃の音が消える頃、宙に残っていた灰褐色の髪と尻尾が、ふわりと下りる。
店仕舞いをしていた人たちが皆、手をとめ、レミに瞠目していた。視線をものともせず、レミは男を殴った拳に、埃を飛ばすように息を吹きかけた。
「酒臭ッ」
眉間に皺を刻んで、犬歯をむき出す。
シエロの脇から、ファラがそっと首を伸ばした。地面に伸びた男を観察する。
「死んでは、いませんね」
「とどめ刺す?」
不穏な会話に、シエロは頬を引きつらせた。膝の力が抜け、槍の柄の石突を地面に付けた。
「ありがとう、レミ」
か細く、シエロは礼を言った。
槍の柄に両手で縋るシエロを、レミはしばらく睨んだ。だが、すぐに踵を返した。
「もう寝よ寝よっ。無駄に動いたら、お腹空くだけだし」
「あ、待って、レミ。まだ開いてるお店で、なんか買って帰ろ」
慌てて後を追った。レミは、ジロリと黄緑色の目を細めた。
「だって、そこの鳥さんが、夕飯抜きって言ったじゃない」
「いや、いいんだよ。僕が買うから」
「そんな、気を遣わなくってもいいよ。言うほどお腹空いてないし」
ふん、とレミは顔を背けた。だが、灰褐色の尻尾は、彼女の後ろで、嬉しそうに右へ左へと揺れていた。早速、店先に残っている品を物色する後ろ姿に、シエロは小さく笑った。
「ファラも、大丈夫だった?」
シエロは振り返り、ファラへ手を差し伸べた。
頷き、その布を巻いた手をとったファラが、首を傾げた。
「お怪我は、もう、いいのですか」
「そういえば」
夢中で、気がつかなかった。必死になって痛みを忘れたのかと思ったが、怪我を思い出しても、痛みは戻らない。数回、握ったり開いたりを繰り返した。シドが巻いてくれた布が多少ひっかかるが、支障なく動かせる。
掌にソゥラの手の温もりが蘇った。
「ソゥラが?」
差し出されたソゥラの手を握り返した。その時から、痛みはなかった。
首をかしげ、ファラはシエロの顔を覗き込む。
軽く首を振り、シエロは右手を見下ろした。残っているソゥラの温もりを包むように、柔らかく握る。
「また、お礼言わなきゃいけないことができちゃった」
肩をすくめた。少し先の店で、レミがふたりを呼んだ。応え、シエロは駆けた。
その後ろ姿を見つめるファラが、そっと額へ手を添えたことに、シエロは気がつかなかった。
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