ひとりではない
山賊に追われた恐怖、ソゥラの集落での穏やかな毎日、小猿のトナに笛を奪われたのがきっかけで出会ったシドの勇気、クリステの古い慣習に苦しみながらも笑顔が素敵なレミ。
バザールで出会った絵描きの娘は、今頃どこかの町で、一花咲かせているだろうか。人里離れた庵で、フラットとシャープは、今日も本に埋もれて、竜の研究をしているのか。カヌトゥの生き残りの少女は、どうしただろう。シエロの唇に柔らかな薔薇の残り香を刻んだキャロルは、最後のウォルト家の娘として、胸を張っているだろうか。
不思議だった。
近い未来に迫った恐怖と不安から守りたい人が、こんなにたくさんいる。近衛騎士長に追われて、逃げるように王都から出たときには、想像していなかった。
横暴なディショナール王が、私欲を満たすため始めた操竜の乙女狩り。奪われた、平穏な技芸団での暮らし。
その不幸がなければ、この多くの素晴らしい出会いは、なかった。
「建国祭まで、あと十二日ばかりですが。もうひと足掻き、してみます」
ソゥラたちには、はっきりとした旅の目的を伝えていない。王命で「何か」を探す旅をしているとだけ、言ってある。ムジカーノの者だと知っている彼らは、もしかしたら、竜探しについて知っているかもしれない。だが、シエロは明確に言わなかった。
ただ、精一杯微笑んだ。
「シエロ」
困ったような顔で、ノクターンが懐を探った。畳んだ手拭を差し出す。乾いた布が、頬に押し当てられた。
「ご、ごめんなさい」
ハラハラと、涙が頬を伝っていた。いくら顔で微笑んでいても、心がついてこなかった。堪えきれなくなった嗚咽が漏れる。口元を押さえ、止めたいが、止まらない。涙が、次から次へと流れ落ちた。
怖い。
建国祭までに竜を見つけることができなければ、処刑される。今まで助けてくれた人も、分かり次第罰せられる可能性が高い。
見つけることができても、強大な力を手に入れたディショナール王によって、この国は血の道を進む。
自分を助けてくれた人たち、関わった人たち。全てを不幸な未来へ道連れにしつつあるのではないか。
裏切りの民とは、もしかしたら、そういうことかもしれない。
ここが店だということも忘れ、シエロは泣きじゃくった。
「何があったか、聞きませんが」
ソゥラの手が、頭に載せられた。集落で山賊に襲われたいきさつを語ったとき同様に、優しく撫でられた。
「そろそろ、戻りなさい。ほら。あなたを探していますよ」
ソゥラは、窓の外をみやった。
袖で涙を拭い、シエロは窓から身を乗り出した。市の光に目をすがめる。散策を楽しむ人々が、時折流れを乱す。その乱れが、次第に近づいた。やがて、人の間を駆ける小柄な姿が見えた。ファラだ。右に左に駆け、あちらこちらの物陰を確認していた。
迷った。戻るか、ひとりで進むか。
しかし、ファラが蔓の花の陰を覗き、身を翻して門へ走っていくのを見て、思わず叫んだ。
「ファラ! ここだよ。上!」
「シエロ様」
振り返ったファラの額から、髪が零れ落ちた。
フッと、ソゥラが真紅の双眸を細めた。
「色を」
「さ、シエロ。あんまり心配させちゃ駄目だよ」
ソゥラの呟きと、ノクターンの言葉が重なった。
ノクターンが、シエロの荷物を持ち上げた。窓に寄り、ファラへ手を上げて合図を送った。入り口で待つよう、伝える。
シエロも、立ち上がった。
「ありがとう。ノクターン、ソゥラ」
心に詰まった泥が、清流に洗われた気持ちがした。荷物を担ぐシエロの前に、ソゥラが右手を差し出した。反射的に、シエロも右手を出す。
「行きなさい。あなたは、ひとりではないのですから」
ほっそりとした手の温もりに、シエロは頷いた。ソゥラの手を、軽く握り返す。
「また今度、僕の竪琴を聞いてください」
心から微笑み、シエロは促されて階段を下りた。
店の前で、ファラは肩で息をしていた。服を洗っていた時に捲り上げた袖が、そのままだ。
「ご無事で」
「うん。ごめんね。心配させて」
シエロは、窓を振り仰いだ。立ち上がり、見守ってくれるふたりへ手を振った。ファラもまた、軽く窓を見上げた。
「あの方たちは」
「山賊に襲われた僕を助けて、あの珠をくれた人たちだよ」
何か言いたげに、ファラはもう一度窓を振り返った。だが、息を吐くと、軽く頭を振った。
宿へ歩きながら、ファラは横目で、シエロの荷物を見る。
「おひとりで、発つおつもりだったのですね」
「ごめん」
槍の柄を含む自分の荷物を持っているのだから、隠しようがなかった。
いえ、とファラは顔を伏せた。
「私は、ただ、意志を確認するためにも、お探ししていました。お発ちになるのなら、止めることはできません」
「戻るよ。遅くなったけど、開いてたらみんなで『竜の湯』に行こうよ」
山の頂に向かう光の筋を、指差した。市は店じまいを始めているが、湯へ向かうランプは、まだ灯っていた。
「あと、ちゃんとシドとレミにもご飯食べてもらおう? お腹空いてたら、余計にイライラしちゃうよ」
「シエロ様が、そう、仰るなら」
渋々というように、ファラは言葉を切った。
「しかし、財布を持ってきませんでした」
「僕が持ってる。何がいいかな」
立ち止まり、あたりを見回した。
突然、だみ声と酒臭さが近付いた。
「おや、若い子が、こんな時間まで出歩いてちゃ、いけないね」
顔を上げると、大柄な男が立ちはだかっていた。捲った袖から露になる肩、はだけた襟元から覗く胸板に、無数の傷跡が走っていた。
「しかも、こーんな綺麗な子が」
毛の濃い腕が、ファラへ伸びた。性別のないファラの外見は、成熟前の女性に近い。白く癖のない髪は艶がある。
シエロは腕を伸ばした。ファラと男の間に立ち塞がる。
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