蔓の花の茶屋
そのとき、門に程近い茶屋の軒先から、シエロを呼ぶ声がした。思ってもみなかった懐かしい声に、思わずシエロは顔を上げた。
「ノクターン」
目を疑った。しかし、蔓の花が絡まる茶屋の軒先で手を振っているのは、間違いなくノクターンだった。その脇には、ソゥラも立っている。ソゥラのような銀髪は、この国でも珍しい。見間違えるはずがなかった。
シエロの胸は、途端に温かくなった。
「ソゥラも。こんなところで会えるなんて、思ってもみなかった」
シエロは駆け寄った。ふたりの周辺へ視線をめぐらせる。
「あの双子は?」
「リズとディーヌかい? 彼女たちは、お留守番だよ」
ノクターンの微笑みは、相変わらず暖かく、朗らかだった。
あの、とシエロは口ごもった。
王都を出てすぐ山賊に襲われ、川に落ちたシエロがしばらく養生させてもらったソゥラたちの集落は、不思議なところだった。
数日過ごさせてもらい、街道に出てすぐ再会したファラと後戻りしたが、集落は影も形もなく消えていた。その上、ファラが言うには、ふたりがはぐれていた時間は、ほんの半日だったという。
「あの、僕、あの後すぐ集落に戻ったんですけど」
恐る恐る尋ねた。
笑い声が近付いた。ソゥラが、そっとシエロの肩を押す。蔓の花を潜った三人連れが、シエロたちに会釈して店へ入った。ノクターンが、店内を示した。
「ここで立ち話もなんだから、中で話そう。夕飯はもう済ませたかい?」
まだだ。しかし、食べる気になれない。曖昧に笑って誤魔化す。
「あ、はい」
「そうか。じゃあ、お茶をいただこう」
ノクターンが、入り口の引き戸を手でおさえた。ソゥラが蔓の花を潜る。シエロも続いた。その際、ノクターンの手が肩にのった。
「ただ、集落のことは、内緒」
口の前に人差し指を立て、ノクターンは片目を瞑った。
やはりそうかと、残念な思いもあった。だが、シエロは、素直に頷いた。自身も明かせない事情を抱えている。ノクターンたちの秘密を無理に聞き出すことは、したくなかった。
カウンターの席に、客はまばらだった。揺れるランプの灯りの中、隣の人に聞こえる程度の声で、静かに会話をしている。ひそやかに重なり合う小声は、どの音も楽しげだった。
磨かれた階段を上ると、二階はやや広いテーブルが並んでいた。店員が、窓際の四人掛けのテーブルに案内してくれた。窓に寄って外を見ると、眼下に市の灯りが広がる。
「温泉には、もう入った?」
ノクターンは、明るく尋ねてきた。まだ、とシエロが首を振ると、彼は窓から軽く身を乗り出した。
「いくつか湯治場はあるんだけどね。お勧めは、あそこだよ」
指差す先に、点々と続く灯りがあった。星明りが縁取る、山の形の黒い空間を上る細い梯子にも見えた。目を凝らすと、山道に並んだランプだと見て取れた。
「ちょっと遠いけどね。あそこが、竜の湯と言われている、ここの名物なんだ」
傷ついた竜が、傷を癒すため浸かったと、フラットの研究書に書かれていた。間もなく目覚めるだろう竜が、いる気配はない。
当然か、とシエロは密かに溜息をついた。
こんな、人が和やかに集う温泉郷に、強大な力の竜が居るはずがない。伝説はあくまでも伝説で。八百年以上前の事実など、欠片ほども残っていない。
それは、今まで辿ってきた全ての場所に共通して言えることだった。
一体、自分は、何をしているのだろう。
空しさを押し殺し、シエロは窓側の席に腰を下ろした。
ノクターンが、温かい茶を三杯、注文してくれた。
シエロの正面に、ソゥラが座った。机の上で、長い指がゆったりと組まれる。真紅の双眸が、柔らかく細められた。
「あれから、ずっと一人で旅を?」
シエロは微笑を絶やさないようにして、首を振った。
「あの後、ファラとはすぐ合流できました。それから、途中の町で、魔導師のシドに出会って。それから、用心棒として、レミが一緒でした」
「あれ? じゃあ、他の人は?」
運ばれたお茶をシエロの前に差し出し、ノクターンが首を傾げた。
ずきりと、胸が痛む。シエロは、竪琴を抱えた。手首が痛む。
期限が迫っている。なのに、成果は上げられない。このままでは、みんな罰せられてしまう。その重圧が、一行の間に亀裂を入れた。ならば、この先はひとりで行こう。
そのつもりで、宿を後にした。
だが、それを正直に言えば、ソゥラたちを心配させてしまう。特にノクターンは、集落でも常にシエロの具合を気にかけてくれた。
「あ、あの。弦が」
シエロは、泥が残る竪琴を掲げた。
「切れてしまって。代わりになるものでもいいから、ないかなって、探しに、市を歩いたんですけど」
「さすがに、湯治場じゃ難しいかなぁ」
ノクターンが眉の端を下げた。ソゥラも、しばらく考えているふうだったが、首を横に振った。
申し訳なくなり、シエロは慌てて弦が切れたところを手で覆った。
「いえ、いいんです。前、直してもらったのに、ほんと、ごめんなさい」
恐縮するシエロの手元を、ソゥラは覗き込んだ。長い銀髪が肩から滑った。髪飾りの珠が机に当たり、小さく鳴った。
「前とは違う弦です。消耗品ですから、仕方ありません。けれど、麓のウェスタに行かなければ、手に入らないかもしれませんね。昔は、予備を持ち歩いていたのですが」
「ソゥラ様も、以前は竪琴を嗜まれておられたからね」
「いえ、ほんと、いいんです。急がないし」
そっと、シエロは左手で右の手首を押さえた。シドが巻いてくれた布が、まだそこにあった。
「ここに来る前に、手首傷めて。どうせ、弾けないので」
「怪我をしたの」
どれ、とノクターンはシエロの手首をとった。巻かれた布を見て、感嘆の息を吐いた。
「へえ。上手く固定したもんだね」
「あ、はい。シドが、巻いてくれて」
「そうか。いや、良かった、ていうのもなんだけど、安心したよ」
ノクターンは、自分の茶を飲んだ。ふわりと、温かな湯気が浮かんだ。
「いい仲間に出会えたんだね」
「はい。すごく助けられてます」
その彼らを裏切る形で、ひとり、何も言わず出てきてしまった。シエロは、胸の痛みを笑みで隠すのに必死だった。
「それに、僕も、彼らをソゥラの珠で助けることができました。素晴らしい魔道具を託してくださり、ありがとうございます」
ソゥラたちとも、もう会うことは出来ないだろう。礼を言えて良かった。
おや、とソゥラが首を傾げた。
「シエロは、あの珠を、仲間を救うために使ったのですね」
やや訝しげな眼差しに、シエロはドキリとした。もしかして、ソゥラが想定していなかったことに使ってしまったのだろうか。他の人を助けるために、使ってはいけなかったのか。
「あ、あの。使い方、間違ってました?」
不安で鼓動が速まった。
ソゥラの双眸が、優しく笑った。
「いいえ。とてもシエロらしい使い方だと思います。あなたに、あれを託して良かった」
ホッと、胸を撫で下ろした。シエロは、懐へ手を当てた。最後の珠は、まだそこにある。珠の存在を意識すると、いつも胸が温かくなる。
「なんだか、この珠を通して、ずっと見守ってもらってるような気がしました。お陰で、いろんなことを乗り越えられました」
最難関となる壁は、この先にある。ひとりで立ち向かわなければならない、高く厚い壁が。
シエロの胸に、王都を発ってからの日々が次々に思い出された。
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