温泉宿

 いくつかある宿はどこも、突然の雨で足止めされた客で埋まっていた。数軒を訪ね、ようやく空きのある宿を見つけたが、いつも通りふた部屋を確保することは叶わなかった。

「四名ご一緒のお部屋ならございます。一応、仕切りはご用意致しますので」

 宿の主人が、申し訳なさそうに揉み手をした。

 野宿の際は、仕切りも何もないのだから、構いはしないのだが。シドとレミの間には、まだ険悪な空気が漂っている。今夜に限っては、別室の方がありがたかった。

「じゃあ、一番頑丈な仕切りを、お願いします」

 苦笑交じりにシエロが頼めば、主人はにこやかに頷いた。

 通された部屋の暖炉に、火を入れた。寒くはなかったが、荷物を乾かす必要があった。シドが協力してくれたら、魔術で済むことだが、頼める雰囲気ではなかった。

 縄を張って、濡れたものを吊るす。雫がタイルの床に落ちる音が、やたら大きく聞こえた。

 服も、全部濡れてしまった。泥汚れが酷いものをまとめて、ファラとシエロは宿の洗い場を借りた。大きな盥に湯を張り、泥を揉み出す。細かい泥の粒子は、繊維の奥に入り込み、なかなか綺麗にならなかった。

 右手が使えないので、シエロは左手だけでできることをした。絞るのはファラに頼んだ。

 シエロは何度も手を止め、部屋の方を見やった。

「あのふたり、まだ仲直りしてないかな」

 険悪なまま、同室にこもるレミとシドが気になって仕方なかった。

「シエロ様がお気になさる必要はありません」

 表情を変えず、ファラはシエロの服を固く絞った。端を持ってバサバサと振り、通りかかりの魔導師を呼び止めて乾かしてもらう。謝礼として金貨を渡せば、魔導師は喜んで、シエロの着るものを一式乾かしてくれた。

「髪も漱いで、泥を落としてください。濡れたものを着ていると、お体に障ります」

 てきぱきと、シエロの着ている泥だらけの服を脱がし、清めた手拭で拭き、乾いた服を着せた。まるで、考えるのを阻止されているようだった。

 別の盥で漱いだ髪の水気を手拭に吸わせながら、やはり、シエロはシドとレミを想った。

 バロックンを出てから、十日ばかり経つ。その間、険しい山道が多かった。街道を外れるので、迷わないようにするだけで神経を使った。宿もなく、野宿が続いた。食事は携帯食に頼らざるを得なかった。

 竜を見つけなければならない期限は、もう、十二日後に迫っている。疲れと焦りが、シエロたちに覆いかぶさっていた。些細なことで苛立つのは、仕方がない。

「ねえ、ファラ。久しぶりの宿なんだし、あのふたりに美味しいものを食べさせてあげようよ」

 そっと提案した。

 シエロから剥ぎ取ったばかりの服を盥へ放り込んだファラは、無言で汚れを揉み出しにかかった。濁った湯を捨て、綺麗な湯を満たす。

「しばらく、放っておけばよいのです」

 鳥人だからなのか、ファラは普段から表情が乏しい。なんとなく語気に怒りや悲しみ、喜びを感じるが、それだけだ。それが、ファラの平常で、シエロは慣れていた。

 しかし、淡々と無表情で突き放すファラに、シエロは暗い感情を抱いてしまった。

「ファラは、いつだって、そうだよね」

 問い返すファラへ、手拭を返した。洗い終わった服を綺麗な盥へ入れ、左脇に抱える。

「先に干してくる」

「シエロ様」

 呼び止める声が遠くなった。

 あてがわれた部屋では、相変わらずシドとレミがぶら下がる荷物を挟んで背を向けていた。干されている荷物が増えているから、何もしなかったわけではなさそうだ。

 洗ってきたものを入れた盥を下ろした。干すのは、片手では無理だった。

 シエロは、自分の荷物を手にした。最も多く水を含んでいたので、入ってすぐのところに置いていた。床には水溜りができていた。

 母の笛は、無事だ。

 竪琴の弦は、湿っていた。この過酷な旅で、保護魔法が薄れてしまったのだろう。左手で、ぎこちなく弦を弾いた。順に、調子を確認する。最後の弦を弾いた時、弦が切れた。反動で跳ねた弦が、指先を強く打った。

 どうした、と尋ねる声が重なった。次の瞬間、ふたりは再び睨みあい、そっぽを向く。

「なんでもないよ」

 努めてさり気なく答えた。だが、胸の内には、苦いものが泥のように溜まっていた。

 いたたまれなくなり、シエロはそっと荷物を手にした。

「次の洗濯物を、取りに行ってくるね」

 軽く声をかけると、部屋を出た。洗い場と逆へ、足音を忍ばせ歩いていく。そのまま、ランプに照らされた廊下を歩き、外へ出た。

 日は暮れていた。豪雨が嘘のように、晴れ上がった空に星が瞬く。雨上がりの湿った空気が、ひんやりと満ちていた。

 宿の前に、ちょっとした市が開かれていた。水溜りがランプの光を反射させる。食べ物や、歩行を助ける杖、マントなどが売られている。雨が降って、用意されたのか。雨具となる厚いマントが多かった。

 少し下ったところには、食堂が並んでいた。様々な食事の匂いが漂っていた。朝から何も食べていなかったが、シエロの食欲は刺激されなかった。

 湯治場の品揃えに、竪琴の弦など、ない。

 当然だ。しかし、たくさんのものが並んでいるのに自分が求めているものがない空しさが、ひしひしとシエロの胸を締め付けた。

 弦の切れた竪琴を、抱える。左手が触れた右手に、痛みが走る。

 道には、湯治客がひしめいていた。怪我をしている人、皮膚病で腕の一部がただれている人。様々だったが、どの顔も、安らいでいた。その中を、シエロはうつむき、トボトボと下っていった。

 客がまばらになった。闇に浮かぶ門が見えてきた。その先は、奈落のような闇だ。

 夜の山道を下るのは、賢明ではない。分かっていたが、シエロは、吸い寄せられるように道を下り続けた。

 息をつき、そっと後ろを振り返った。追ってくる姿はない。

 今までありがとう。

 心の中で礼を言い、竪琴を抱きしめた。

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