不協和音
緩んだ道の端ギリギリまで踏み込み、ファラが手を伸ばす。
「シエロ様、もう片方の手を」
「でも、竪琴が」
シエロの手は、荷物を抱えていた。竪琴と、母から託された笛を、流すわけにいかない。
「何言ってんの。命のほうが大事でしょ」
「だけどっ」
せめて、笛だけでも。荷物の中から笛を取り出したいが、強い流れに拒まれる。察したファラが、シエロの手を諦め、荷物へ手をかけた。だが、逆に流れへ引き込まれそうになる。
「シド。魔導力で水をどうにかしろ」
叫び、レミはシドを振り仰いだ。
救いを求め、シエロも彼を見上げた。
シドは崖を背に、立ち尽くしていた。瞬きを忘れた細い目が、恐怖を湛えてシエロを凝視している。戦慄いた唇が、何かを呟いた。
レミの毛に覆われた耳が、ピクリと動いた。
「こんなときに、何言ってんのッ。魔術でも腕力でも、とにかく手伝えッ」
獣の咆哮にも似た怒鳴り声に、ようやくシドの体が動いた。自分の荷物から着替えのシャツを出す。袖を自分の腕に巻きつけ、反対の端をシエロへ投げた。
流れに従い、手元へたどり着いたそれを、シエロも腕に巻きつけた。
「上げるぞ」
レミが腕を、ファラが荷物を、シドがシャツを引いた。シエロも、腕に出来るだけの力を込めた。腿をひきつけ、濁流を振り切る。
片足が抜けた。夢中で地面を踏み、反対の足を引く。膝下を吸い取る力が弱まった。ズボリと、濁流から脱した。
「た、助かった」
それぞれにへたり込み、肩で息をした。
雨脚は弱まってきた。だが、落石が転がる中、四人はしばらく泥の中に座り込んで、立ち上がれなかった。
数回咳き込み、最初に顔を上げたのは、レミだった。膝を立てるなり、シドの胸倉を掴み上げる。
「あんた、ふざけんじゃないよッ。何が、ケモ耳だッ」
「は? そんなこと、言ってねぇ。俺は」
「うっせえッ。最近ちょっとは使えるようになったかと思えば、全ッ然役に立たないじゃないか」
牙をむき出し、レミは黄緑色の目を怒らせてシドに迫った。だが、シドも負けていなかった。細い目の端を吊り上げ、襟元を掴むレミの手を払った。
「なんのための用心棒なんだよ。もっとしっかりシエロを見ていろ」
「見てたよ。だから、完全に流される前に掴んだんじゃないか」
「その前から、シエロはボーッとしてただろ。そういうときは、予め手でも繋ぐなり、声かけてやんないと、戻ってこないんだよ。それとも、気がついてなかったのか?」
グッと、レミは詰まった。だが、そこでレミを責めるわけにいかない。用心棒といっても、獣人としての武力を求めて雇ったのだ。職業としては、素人なのだ。
「気がついたんなら、あんたが声掛けてやりゃ良かっただろ」
「てことは、認めるんだな。自分のミスを」
「そういうあんたは、どうなんだよ。魔術で水を止めることくらい、初歩技術だろ」
今度は、シドが唇を引き結んだ。舌打ちをし、目を逸らせる。
ふたりを前に、シエロは、ただオロオロとしていた。
「ね、ねぇ。ふたりとも。あの、一番悪かったのは、その、ボーっとしてた僕で。だから」
「「黙ってろ」」
「ぴゃ」
ふたりから睨まれ、シエロは思わず短い悲鳴をあげた。竪琴に縋りたくなり、荷物を引き寄せた。その右手首に、激痛が走った。
握れない。それどころか、わずかに指先を動かしただけでも、雷電のような痺れが走る。
「骨には、異常なさそうですが」
そっとファラの指が皮膚の表面を撫でる。だが、確かに触れているはずの指の感触が、伝わってこなかった。
「筋を、やっちまったか」
レミが、腰に巻いていた布を解き始めた。水を吸って膨らんだ布は、摩擦も大きく、片手で解くのに難儀した。
その間に、シドが担いだ荷物の中から同様の布を取り出す。レミを押しのけた。小さく多々良を踏んだレミが、シドを睨む。
「ちょっと。なによ」
「どんくさいから、避けただけだ」
丸めた布の端をシエロの手首へ当て、転がすように広げながら巻いていく。レミの喉から漏れ出る唸り声を完全に無視して、手の甲や指の間で交差するように巻きつけていく。
シドの手際の良さより、レミの苛立ちが気になって仕方なかった。
「あ、あの、レミ。お願いだから、このままシドを川に放り込むとか、やめてね?」
オズオズと言えば、犬歯が覗く口の端がニヤリと引き上げられた。
「ああ、いいねぇ、それ。ちょっと、頭冷やしてもらおうか」
掌底を反対の拳に押し当て、指を鳴らす。
「は。やれるもんならやってみろ」
冷たく、シドが言い返した。
火に油を注いでしまった。恐ろしさに、シエロは身を縮めた。
突如、いがみ合うふたりの頭に槍の柄が振り下ろされた。水を含んだ髪から飛沫が飛ぶ。ファラの手の中で、槍の柄がヒュッと回転した。
「おふたりの今夜の夕飯代は、出しませんからね」
ジトリと、ファラは半眼で、頭を抱えるふたりを見下ろした。
「あ、あれ。ファラって、いつのまに棒術を」
「無防備な人間を打つだけなら、三百八十年生きなくともできます」
冷ややかに言うと、ファラは自分の荷物を担ぎなおした。荷物からは、泥水が滴り落ちた。細い指で、道の先を示す。
「もう、湯治場は見えています。いつまでも泥にまみれていたくなければ、行きましょう」
景色を隠していた雨は、小雨になっていた。ファラが示す道の先に、仄かな灯りが浮かんでいる。
頷き、シエロも水を吸って重くなった荷物を左手で引き上げた。
「ファラ、こえぇ」
後ろでシドがボソリと呟くのが聞こえた。
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