竜の湯

山道の豪雨

 ぬるい大粒の雨が降り注ぐ。岩が露出する山道は、滑りやすくなっていた。まだ日暮れには時間があるはずなのに、辺りは夜のような暗さだった。

「もうじき、到着するはずです」

 先頭を行くファラが、三人を振り返った。いつもは顔の動きに合わせてサラリと靡く髪が、べったりと顔に張り付いている。珍しく大声を張り上げているようだ。だが、耳元に叩きつける雨音が、ファラの声をかき消す。

 シエロたちは、始祖王と竜が傷を癒したと伝わる湯治場を目指していた。ビューゼント王国西部の火山地帯にある秘境の湯は、現在も温泉好きな人々の間に語り継がれている。だが、険しい山道を辿らねばならない。気軽な観光気分で訪れることは出来ない場所だった。

 時折、辺りが一瞬白く照らされる。同時に、硝子の器を裂くような雷鳴が響き、ズズ、と地響きが続いた。尾根を挟んだ地域は、落雷にも見舞われていた。

 シエロは、雨で滑る槍の柄を握りなおした。

 もう、二刻以上、同じような道を歩いている。一列でしか歩けない細い道のすぐ右手は、垂直の崖が壁となっている。

 すぐ左手は、川だ。幅は狭く、晴れた日は陽光を反射させ、波頭の煌きも舞踏曲のように楽しげなのかもしれない。が、一刻前から急に降りだした豪雨に、荒れていた。

 濁った泥水が、勢い良く流れる。水かさが増し、飛沫が足首にかかった。あっという間に後方へ流れる水面をしばらく見ていると、ふいに吸い込まれそうになる。

 できるだけ、足元の濡れた地面以外は視野から追い出し、シエロはシドの後ろを歩いた。しんがりを、レミが務めてくれている。

「そこ、気をつけろ」

 振り返ったシドが、左の腕を押した。シエロを川から遠ざける。ただでさえ細い道は、所々急流に抉られ、崩れかけていた。礼を言うが、果たして届いただろうか。

 シエロは、息を吐き出した。

 歩くことに、集中しなければならない。だが、暗い灰色の濡れた路面ばかりを見るうちに、ふっと意識が別のことを考えてしまう。

 裏切りの民。

 バロックンの町で、地下水脈を読み取るウォルトの末裔と別れてから、シエロは頻繁にその言葉について考えていた。

 キャロル・ウォルトから借りた古書には、シエロたち、ムジカーノ家の祖先は、穏やかな民のように書かれていた。人々の心を、癒す民。

 旅の中で、シドやレミに、竪琴を弾くよう求められることがある。シエロの竪琴を聞いていると、疲れが癒されるのだという。竪琴の音がそうなのか。それとも、受け継がれた血のためなのか。

 それなのに、なのか。それ故に、なのか。

 始祖王に組したムジカーノ家は、結果として、竜神や、王国以前からこの地に栄えていた「竜神から力を与えられし民」を滅びへ導いてしまった。

 にもかかわらず、外部の力や自然淘汰の中で消滅に瀕しているカヌトゥやウォルトと違い、ムジカーノの末裔は細々と血を繋ぐことができている。裏切りの民なのだから、さっさと消えてしまえばいいものを、のうのうと生き延びている。それが、なんだか、申し訳なかった。

 裏切りの民と後ろ指をさされる血は、醜く穢れているのではないか。

 ディショナール王は、操竜の乙女の末裔であるムジカーノ家の女性を城に捕らえている。男性は、シエロ以外殺されている。彼により、裏切り者はこの世界から抹消されるのか。

 様々な思いが、とめどなく溢れてくる。考え出すと、止まらない。

「シエロっ」

 鋭いレミの声に、ハッと我に返った。同時に、重い音を聞いた。後ろからレミに引かれる。

 すぐ目の前に、石が転がり落ちた。大人の頭ほどの大きさがある。

「まだ来るぞ」

 緊迫したシドの声に、上を見ようとした。が、レミの手で頭を押さえられる。レミは、横に提げていた荷物で頭を庇っている。シエロも倣って荷物を載せようとして、ためらった。

 荷物の中には、大切な竪琴がある。石が直撃したら、壊れてしまう。

 その数秒の出来事だった。シエロの視野の端で、拳大の石が跳ねた。岩壁の突起で方向を変え、真っ直ぐシエロ目掛けて落ちてくる。

 咄嗟に、腕を上げた。槍の柄で防ごうとした。

 右手首に激痛が走る。槍の柄を取り落とした。痛みに弾かれ、体が揺らいだ。足が滑る。

 ザブリと、川へ片足が落ちた。膝上まで浸かる。均衡を崩し、倒れそうになるのを、レミに支えられた。

「あ、ありがとう」

 どうにか片足は道端に載っていた。だが、足場が悪い。足の幅だけ右に寄ったところの路面は、頑丈そうだ。踏み替えようと、膝を上げた。流れの中の軸足を踏ん張る。途端に、浸かっている足を、強い力で引かれた。

「わ」

 流れは、思いがけない強さだった。引きずり込まれる。あやうく顔まで浸かりそうになった。瞬時にレミが腕を握ってくれたため、辛うじて留まれた。

 並みの男性より力のある獣人レミが、両手でシエロの片腕を掴み、呻いている。シエロもレミの腕を掴み返そうとした。が、さっき落石で強打した右手だ。力が入らない。下半身は、流れに翻弄され、揺らぐ。膝を引きつけられない。駆け寄ったファラも加勢するが、現状維持で精一杯だ。

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