お茶を

 初夏の太陽が眩しい。

 そのような昼下がりでも、書庫は薄暗かった。ウォルト氏は、杖をつきながら、ゆっくりと書架へ近付いた。

 旅の楽師が近衛騎士に連行されてから数日経つ。娘は落胆のあまり、部屋へ籠もってしまった。

 ウォルト氏は立ち止まり、シンとした静寂の中に佇んだ。

 目を閉じる。

 若い楽師の、柔らかな眼差しが瞼の裏に浮かぶ。彼が爪弾いていた竪琴の音が、耳の奥に聞こえる。

 彼は、もう、この世界にいないかもしれない。

 裏切りの民。

 初めて知ったのは、数十年前だ。その時は、すでに滅びた民だと思っていた。

 彼らについて、書かれていたのは数行だった。

『その音色、よく人々を癒す』

 いかにも穏やかそうな記述にもかかわらず、彼らは竜神を裏切った。始祖王を助けた。その結果、古き民から糾弾された。

 しかし彼らは、同胞から後ろ指をさされながらも、細々と、血を繋いでいたのだ。

 それも、建国祭までだろうか。

 ウォルト氏は、足元を見やった。

 国王は、カヌトゥの後、ムジカーノをも滅ぼそうというのか。己に利のある星読みのみを、残そうというのか。

 ウォルトの血も含め、古き民が生き延びる手立ては、ないのか。竜神は、彼らを救わないのか。

 出ない答えをそれでも求めて、すでに何度も熟読した写本へ手を伸ばした。いつの代からウォルト家にあったものなのか。原本は王城の図書庫にある旨が、巻末に記されている。

 ウォルト氏の手が、宙で止まった。所定の位置に、幅広い隙間がある。あの分厚い背表紙は、そこになかった。

「誰が」

 ウォルト氏は、書棚にぽっかりと空いた空洞を見つめた。

 娘だろうか。彼女も、シエロと出会い、己に流れる血についてより深く知ろうとしているのか。

 深い息を吐いた。

 娘は、ウォルトの血を忌み嫌っているものだと思っていた。古き血は、彼女を不幸にし続けた。親戚から嫌味を言われ、母を弱らせた。ただ、人並みの幸せを掴んで欲しいと願って結婚を勧めれば、ウォルト家の利益のためなのかと、反発した。

 それでも、シエロの人柄に触れ、同じ竜神に力を与えられし民の末裔として、思うところがあったのか。

 騎士に連行される若者へ、娘は涙ながらに別れの口付けをした。自分の娘ながら、美しかった。

 体を張ってでも、騎士を退けるべきだっただろうか。しかし、王に背けば、召使の家族までも処刑される。屋敷の当主として、従うより他になかった。

 苦い思いが溢れる。

 ウォルト氏は再び、あるべきものがない書架の隙間を見つめた。

 目を見張る。

 ボウッと淡い光が満ちていた。

 瞬きを繰り返すうちに光は消え、あの本の、分厚い背表紙がそこにあった。

 手に取る。確かに、古き民について書かれた古書の写しだ。

 ふと、裏表紙裏に新しい紙の端が見えた。震える手で引き出す。インクの匂いがした。

 背後で扉の開く音がした。

「お父様、居られたの」

 やや青ざめ、娘が扉に縋っていた。

 書庫を使うことは、禁じていない。なのに、声に怯えを含んでいるのは何故なのか。娘の視線は、ウォルト氏の手元へ注がれている。

 古書から引き出した紙片へ目を走らせ、ウォルト氏は口元を緩めた。

「なるほど」

 娘へ差し出す。キャロルは、見開いた青い目で文字を追った。

『全ての民の未来に、光があらんことを。シエロ』

「怒ってらっしゃる?」

 キャロルの声は、震えていた。

 ウォルト氏は、静かに首を振った。

 何を、怒ることがあろうか。心に、楽師の爪弾く竪琴の音色が満ちているというのに。

「ただ、話してもらおうか。私を、仲間はずれにしないでおくれ」

 巻き毛に縁取られた顔が、明るくなった。シエロからの書付を胸に抱くと、娘は嬉しそうに頷いた。

「では、お茶を淹れますね」

 その笑顔は、楽師の奏でる竪琴の音色のように優しく、初夏の日差しのように美しかった。

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