シエロ劇場 第二幕

 その日の晩餐は、厳かだった。

 正式な婚約者として席を用意されたシエロは、落ち着けない。椅子の座り心地から目の前に並ぶたくさんの食器に至るまで、なにもかもに慣れていない。ただでさえ食が細いのに、食べものが喉を通らなかった。

 緑色の豆のポタージュをちびちびと飲んでいると、にわかに玄関が騒がしくなった。

「何事だ」

 ナプキンで口を拭い、ウォルト氏が立ち上がる。扉がノックされ、入り口で警備兵が敬礼した。

「騎兵が一騎、ウォルト様に御用だと」

「騎兵だと? どこの」

 眉を顰めるウォルト氏の問いに、答える警備兵の声は震えていた。

「お、王の騎兵です」

「なんだと」

 見開かれた目が、即座にシエロへ向けられた。警備兵の声は、さらに続けた。

「し、シエロ、ムジカーノを、差し出せ、と」

 彼が言い終わらないうちに、騒ぎが近付いた。争う音が大きくなる。

 扉が蹴破られた。蝶番が飛ぶ。

 現れた騎士は、確かに王の近衛騎士だった。銀色の甲冑の額と胸当てに、王家の紋章が刻まれている。

「シエロ・ムジカーノがここに居ると聞いた。大人しく出せ」

 どすの効いた声に、キャロルが小さく悲鳴をあげた。ガタガタ震える侍女が、床へ座り込む。

 甲冑の下で、ギラリと目が光った。騎士の手が、剣の柄に伸びる。金属が擦れる。剣を抜いた。

「大人しく引き渡せ!」

 振り上げられた白刃に、シエロは、立ち上がって皆の前で両腕を広げた。

「待って」

 背に、キャロルたちを庇う。

「ぼ、僕です。僕が、シエロです」

 騎士の威圧に、声が震える。

「駄目、シエロ」

 キャロルの手が、シエロの腕を掴んだ。その指も、震えていた。

 剣を突きつけられた。甲冑の下でせせら笑う騎士の目が見える。

 目の前が霞んだ。恐怖が、腹の底から這い上がる。それでも、歯を食いしばり、堪える。大切な人を守るために。

 ああ、と、シエロは思った。

 このような状況で、毅然とシエロを守ってくれた母の強さには、敵わない。

 だけど、立ち向かわなければならなかった。

「命令に従います。だから」

 めいいっぱいの勇気をふり絞って、顔を上げた。

「この人たちには、手を出さないと約束してください」

 騎士が、鼻先で笑った。剣を収める。

 金属の手甲が、シエロの腕を掴んだ。たちまち捻り上げる。シエロの細い両手首を、片手で易々と固定した。

 痛みに、シエロは呻いた。

「罪人確保に協力、感謝する」

 言い残し、騎士はシエロを引きずった。

「お待ちください」

 叫んだのは、キャロルだった。侍女が止める手を振り切り、彼女は巻き毛を揺らして駆け寄った。

 騎士の腕が上がる。突き倒され、キャロルは悲鳴をあげた。それでも、すぐさま身を起こし、懇願する。

「お願いです。せめて、お別れを」

「キャロル」

 揺らぐ青い眼に、シエロは胸が痛んだ。

 甲冑が軋む。騎士が無言で頷いた。

 恐る恐る、キャロルは歩み寄った。そっと、シエロの頬へ手を添える。

「さようなら、シエロ」

 薔薇の香りが近付いた。

「え」

 唇に柔らかく、キャロルの唇が押し当てられた。彼女の頬を流れた涙が混じり、塩辛い。

 熱い吐息が、キスで湿った口の端にかかった。

「ありがとう」

 目の前で揺れる青い瞳が、しばらくシエロの脳裏に焼きついた。

「行くぞ」

 騎士の腕に、吊り下げられる。

 祈るように両手を胸に当て、シエロを見つめ続けるキャロルの姿が、次第に遠ざかっていった。



 馬の鞍から下ろされ、シエロは石畳を踏んだ。体を伸ばす。そして、自分を取り囲む三人の顔を順に見上げた。

「ありがとう、みんな」

 馬上の騎士が、王家の紋章入りの冑を脱いだ。詰め込まれていた灰褐色の長い髪が、はらりと零れる。

「はあ。耳と尻尾がきついや」

 フルフルと頭を振り、レミは笑顔でぼやいた。

 隣で、シドが気合を入れる。

「さて。夜明け前に、甲冑をお返しするとしよう」

 寝静まった街道の石畳に、魔方陣が浮かび上がった。レミが手早く外した一式を中心へ置くと、詠唱を唱える。

 青白い光と共に、甲冑は王都の武具倉庫へ戻っていった。

「シド、これも」

 シエロは荷物から分厚い本を取り出した。ウォルト家の書庫にあった、竜神に力を与えられし民についての本だ。数冊ざっと目を通した中で、これが最も信憑性があった。

「キャロルに借りたんだけど、ウォルト氏には内緒だから、早めに複写して返したいんだ」

「あ。でも、今夜は勘弁して」

 げんなりと、シドは本を受け取った。

「さすがに、疲れた。腹減った」

「多めに用意していたのですが」

 嘆息してファラが見つめる先には、空になった箱や油紙があった。食堂の、持ち帰り用の容器や包みだ。

「これ、全部シドが?」

 シエロは目を丸くした。シエロなら、四日間食べ続けてもなくなりそうにない。これを、ひと晩で平らげた。

 考えてみれば、立て続けに魔術を使ってもらった。遠く離れた王城の倉庫から、警備の目を盗んで甲冑一式を召喚し、返しただけではない。町の人が近衛騎士の姿を見て騒ぎにならないように、屋敷の外でレミと馬の姿が認識されない術も使っていた。

 しみじみと、大欠伸をする若い魔導師を見上げた。

「すごいんだね、シドって」

「ふあ? 何、改まって」

「シドだけじゃないよ。レミも、すごい迫力だった」

 剣を突きつけられた時の恐怖が、ぶり返した。自分の腕を抱き、シエロは身震いをした。打ち合わせた上での演技と分かっていながら、本物の騎士を前にしているようだった。

 へへ、とレミが鼻の下を擦った。

「ちょっと張り切りすぎて、扉壊しちゃったけど」

「ウォルト家に、傷を残してきたのですか」

 呆れるようなファラの言葉も、どこか温かく感じた。

「ファラも、ありがとう。何度も飛んでくれて」

 綿密な打ち合わせのため、何度も変化してくれた。顔には出さないが、変化も相当な体力と精神力を消耗するらしい。しかし、ファラはいつもの涼しい顔を、わずかに傾けただけだった。

「ご無事で、なによりでした」

 ホッと息をつき、シエロは差し出された水袋を受け取った。口をつける。薔薇の残り香が漂った。

「どうしたのかな、キャロル。打ち合わせにはなかったんだけど」

 濡れた口元を拭った袖をそのままに、シエロは首を傾げた。柔らかな唇の感触が、まだ、残っている。

 髪を結いなおしたレミが、悪戯っぽく肩をすくめた。

「あの時の彼女、演技じゃなかったよ」

「え。いや、ないないないない」

「そう?」

 くくく、と喉を鳴らして笑うレミに、シエロの顔は熱くなった。

「ないよ、絶対」

 キャロルが触れた頬が熱くなる。唇が、目の前で揺れる青い瞳が、今すぐそこにあるかのように鮮やかに蘇る。火照る頬を、湿った袖口で何度も擦った。

「へぇえ」

 意味ありげにニヤニヤするシドに、違うってば、と背中を向けた。

 首を傾げていたファラが、じとりとシエロを見た。

「もしや、シエロ様。操を」

「み、みさおって、ファラ、そんなことないからっ」

 ない。絶対ない。キャロルは、ただ、アルトとの婚約解消と、新たな婚約が止むを得ない事情で破綻に持ち込まれたことを演じただけで。説得力を加えるためだけであって。

 それでも、柔らかな薔薇の残り香は、しばらくシエロの鼓動を大人しくさせてくれなかった。

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