ウォルト氏の苦悩
塀の外へ出なければ、敷地内を自由に散策して構わない。
キャロルに言い渡されたが、とてもシエロの脚では塀の外へ辿りつけそうになかった。
ウォルト家に囚われて、三日が経とうとしていた。
広大な屋敷の庭は、完全に森だった。風通しは良いが程よく密になった木々の間を、石畳の道が複雑にぬう。どの道を歩いても同じような風景で、ともすれば迷って屋敷に戻れなくなりそうだ。馬車で来た道は、どれだったのか。
竪琴を弾けば、レミに聞こえるかもしれない。一縷の希望から、ひとり木々の間で奏でるが、風に音を運ばれるだけだった。
「困った、なぁ」
ひとりごち、傍の幹にもたれた。
竜神と、竜神から力を与えられし民について知れたのが、唯一の収穫といっていい。
操竜の力も、竜神から与えられた力なのだろうか。
それとも、オーケスティン王国由来のものなのか。
どちらにしても、すでに、操竜の力も失われているかもしれない。
シエロの記憶にある限り、操竜の乙女の直系と言われる母に、特別な力がある気配はなかった。自分が直系の末裔だということすら、襲撃した近衛騎士長から聞かされて知ったくらいだ。
襲撃されたときを思い出し、シエロは身を震わせた。
王は、判明する限りのムジカーノ家の女性を集めている。彼女たちの誰一人として操竜の力を受け継いでいなければ、彼女たちは。
そして、ムジカーノの血は。
震える指で、弦を弾いた。
ゆっくり、ゆったり。風に、葉擦れの音に意識を集中させ、爪弾く。
己の心に、嘘をつく。
無理やり自分を落ち着かせ、シエロは額の汗を拭った。暑さの汗ではない。じっとりと、冷たく気持ちの悪い汗が浮かんでいた。
カツリと、杖先が石畳を叩いた。
「竪琴の腕は、確かだな」
いつのまにか、ウォルト氏が向かいの幹にもたれていた。上質な麻の上着に、木漏れ日がまだら模様を作る。最初に見たときより、ずっと老け込んでみえた。
「少し、歩くか」
数歩先から振り返られ、シエロは竪琴を抱えた。
どうすればいいのだろう。
自分の負の感情を誤魔化すのはだいぶ上手くなった。が、偽の婚約者を演じるのは、まだ苦手だ。下手な応対をすれば、あとでキャロルにどやされる。
ウォルト氏は、無言でシエロを待ち続けた。仕方なく、シエロも無言で歩み寄った。
木漏れ日が石畳に揺れる。
「あのような娘で、申し訳ない」
前を向いたままだった。低い声は、葉の間を吹く風の中で静かにシエロの耳へ届いた。
返答に困り、ただ、黙って彼の後を歩いた。
ウォルト氏は、足を止めた。おもむろに、視線を上げる。シエロも、その視線を追った。ただ、風に揺れる葉の間から青い空の断片が見えるだけだ。
「四十年あまり、だな。私がこの家に婿入りして」
しみじみと回顧する眼差しだった。
「授かる子、授かる子。全て男児で、周囲から女児はまだかと急かされる。灌漑の技術は年々発達している。竜神から授かった力だからと、そうまでして残さなければならないのか、私には理解できなかった。今も、理解できない」
ウォルト氏は、足元へ視線を落とした。
シエロは、広い背中を見つめた。
この人も、随分と苦しんだのだろう。
種馬と、キャロルは言った。それは、迎える婿のことではなく、自分自身を揶揄しているのではないだろうか。あるいは、今まで周囲から、そのような扱いを受けていたのか。
「同じく竜神の力をもつ民が、つい最近、滅びたと聞く」
カヌトゥのことだ。痛む胸を、そっと押さえた。
「必要のないものが廃れるのは、世の習いだろうに。シエロ殿」
ゆっくりと振り返った瞳は、真っ直ぐにシエロへ向けられていた。
「お前さんは、本当に、良いのか? あの娘と、とてつもない重みを背負う覚悟が、おありなのか」
良いも悪いも、覚悟もなにもない。ただ、キャロルの芝居に乗るよう、命じられているだけだ。だが、ウォルト氏は、真剣に悩んでいる。見ていて、痛々しいほどに。
アルトとキャロルの婚約は、まだ解消されていない。ウォルト氏が、拒み続けている。
どう、答えたらいいのだろう。
無言を続けるシエロに、ウォルト氏は溜息をついた。
「アルトも、迷っていた。だが、時間をかけて、キャロルのためならと覚悟を決めてくれた。私は、彼の覚悟を無駄にしたくない」
僕もそうですと、言えたらどんなに楽だろうか。
喉元まで出かかった本音を、飲み下した。
ウォルト氏は、深く頭を下げた。
「頼む。この件から手を引いてくれ。バロックンに関わりのない旅人のあなたに、背負わせて良いものではない」
「あ、あの」
「娘の説得は、私が責任をもってする。考えて、いただけるだろうか」
考えるもなにも。本気でキャロルと結婚するつもりは、全く無いんですと、言いたかった。
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