水脈を読む
「簡単に言うと、そう。あの食堂には、旅人が集まる。その中でお前は、手頃な年の男性で、一番扱いやすそうだった」
ケロリとした顔で、喉を鳴らし、コクコクと飲み干す。空になったグラスを、レースのクロスを掛けたテーブルへ置き、彼女は微笑んだ。
「無事婚約解消できたら、お前も用済み。すぐに開放してあげる。謝礼もはずむから、協力しなさい」
「そう、言われても」
「大丈夫。父は、部下には厳しいけど私には甘いから。年いってからの、たったひとりの、大切なウォルト家の女だもの」
自信たっぷりである。
ふと、彼女の言葉が気になった。
「ウォルト家って、なにか、由緒があるんですか」
「変なの。発作で苦しいなら、黙ってればいいのに」
青色の瞳に睫毛が影を落とした。口元には、変わらず微笑を湛えている。キャロルは、低く歌うように答えた。
「地の底に耳をすませ、水の行方を聞く民。その力、血潮に乗り、母なる者へ引き継がれん」
シエロへ、まっすぐに向けられた青い瞳は、深い水の流れを思わせる。
「川のないバロックンでこれだけ農業が栄えたのは、全部ウォルト家の水を読む力のお陰。祖母から母に、そして私に引き継がれた力」
だけど、とキャロルは苦笑した。
「私の代で涸れてしまうけどね」
「どうして?」
「ウォルトの血が薄まってるから」
キャロルが言うには、王国以前、この地には、竜神から力を与えられし人々がたくさんいた。星を聞くもの、地の声を聞くもの、水脈を聞くもの。彼らの元で、民は穏やかに生活していた。
だが、北のオーケスティン王国から逃れてきた始祖王が新しい文明を持ち込んだ。
つつましい生活をしていた民は、経済的に豊かになった。古い伝統が、新しい技術にかわった。周辺の小国から人々が移住し、貿易により町は大きくなった。
その一方で、衰えていく力に、人々は気が付いていなかった。太古の昔から自分たちを生み育て、支えてくれた力が、気が付けば弱くなっていた。
ウォルト家も、他の民と婚姻を繰り返すうちに、血潮によって受け継がれた力を薄めてしまった。
「母は、祖母が産んだ、ただひとりの娘だった。そして母も、何度も男児を産んだあと、ようやく私を産んだ。最後の女である私には正直、水の流れなんて分からない。かすかに、潤いと乾きを感じるだけ」
立ち上がり、キャロルは窓へ寄った。緑色の葉が、すぐそこに揺れている。
「だけど、父は諦めていない。私が女児を産めば、力が蘇るかもしれないと考えている。相手なんて、どうでもいいの。種馬が欲しいだけ」
酷い例えである。
シエロには、そう思えなかった。誰でもいいなら、勝手に相手を選び、あてがえばいい。だが、彼女の父は、結婚相手を選ぶ権利を与えている。件のアルトにしても、最初はキャロルが望んだ相手だと言っていなかっただろうか。
「ごめん、もう少し、水、もらえますか」
ゆっくり体を起こし、グラスを探した。澄んだ音がして、キャロルは水差しを手に戻ってきた。透き通った水に、赤い薔薇の花弁が一枚、浮かんでいる。
喉を潤すと、だいぶ楽になった。
「その力は、女性にだけ?」
「そう。だから、九人? 八人だったかな。それくらいいる兄達は、全く無用の長物」
女性だけ。ふと浮かんだ問いを、口に上せた。
「操竜の乙女も、そうなのかな」
「なに、それ」
首を傾げるキャロルの反応に、驚いたのはシエロの方だ。
「王国の、伝説の」
誰でも知っているものだと思っていた。人々は、子供を寝かしつける際のお話として、子守唄として、始祖王と竜と乙女の話を伝えているものだと、思っていた。
「知らない。ていうか、知りたくもない」
険しい表情で、吐き出すようにキャロルは言った。
ああ、そうか。
シエロはぼんやりと納得した。
元からこの地に住んでいたウォルト家にとって、始祖王は侵略者だ。滅びを招いた者だ。彼を英雄と讃える伝説を、子供に伝えたくないだろう。
「仇、だもんね」
ポツリと零したシエロに、キャロルは力強く頷いた。巻き毛がふわりと揺れる。
「そうよ。我らの竜神さまの仇」
「竜、神、さま」
息を吸い込みすぎて、咳き込んだ。
「ああ、もう、何。大人しく寝ておきなさいよ」
肩を押された。長椅子の背もたれへ押し付けられる。
扉がノックされた。ほぼ同時に、ガチャリとノブが回る。
「キャロル様」
息せき切って、扉を押し開けたのは、シドくらいの年齢の若者だった。長身に、警備兵の制服がよく似合っている。真面目そうな顔立ちは特に美男子というわけではないが、整っていた。
「あら、アルト。ノックの後は、こちらが返事をするまでは開けない約束じゃなかった?」
なんということのない顔で、キャロルは応じた。
アルトは、数回口を開いたり閉じたりした。さかんにシエロとキャロルを交互に見つめる。ハッとして背筋を伸ばすと、勢いよく敬礼した。
「お、お取り込み中に、す、すみませんっ」
パタリと扉が閉まった。
キョトンとした顔のキャロルに見下ろされる。
やはり、呆然としたまま、シエロは状況を考えた。今のこの状態が、傍目からどう見えるか。
発作のため、熱っぽく長椅子にもたれかかるシエロの服は、襟や帯が緩められている。そのシエロの両肩に手を置き、覆いかぶさるように体重をかけているキャロル。
立場は、逆のような気もしないでもないが。充分に誤解を招く状態のような気がした。
キャロルも、ようやく状況を把握したようだ。額に指先を当て、長く息を吐いた。
「あんの、早とちりちゃんが。だから、万年使いッ走りなのよ」
閉まった扉の、その向こうを見るような青い瞳が、翳る。
シエロは、気だるく彼女を見上げた。
そう。気になったのは、この目だ。
ひとり、彼女に従って馬車に残ったときから。強がっている。彼女は、懸命に嘘を重ねている。
シエロを連れ込んだのは、藁にも縋る思いからだ。
何を、そんなに。
「キャロル、あなたは、本当は」
「丁度いいわ。話をつけてくる。お前はここで、大人しく休んでいなさい」
勢い良く立ち上がった弾みで、服の裾が大きく揺れる。大股で出て行く後ろ姿は、どこか悲しげだった。
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