とても厄介なこと
馬が速度を緩めた。
「さあ、降りて。黙ってついてきなさい」
召使が開いた扉から、キャロルは身軽に飛び降りた。
揺られ続けて、足元がおぼつかないシエロも、そろりと降りた。辺りは瑞々しい香りに包まれている。木々の葉や花が放つ、しっとりとした空気が満ちていた。小鳥が囀る。
シエロは竪琴を抱きなおした。
閑静な邸宅の庭。本当なら、さぞかし、寛げる場所なのだろう。が。
なにが、待ち受けているのか。
「シエロ、早く」
どういう、状況なのか。
理解できないまま、シエロは石段を上って樫の扉を潜った。
邸宅の中も、豪華だった。磨かれた階段の手摺り、色硝子のランプ、革張りの長椅子、樹脂の馴染んだ飾り棚。
その重厚な棚に飾られた剣置きに、目を奪われた。
鱗に覆われたうねる体。大きな羽毛のない翼。開いた口に並ぶ鋭い歯。らんらんと光る目。
吸い寄せられるように踏み出した足が止まった。
「キャロル。誰だ、そいつは」
しわがれた男性の声が、雷のように響いた。
シエロは、ビクリと身を竦ませた。
毛足の長い絨毯を踏んで、廊下の奥から初老の男性が現れた。歩行を助ける杖を握る手にも、年齢を感じさせる。白いものが混じる紺色の髪は梳られ、後ろに撫で付けてあった。
「お父様」
パ、と顔を輝かせ、キャロルは顔を上げた。そして、いきなり、シエロの腕を抱き寄せた。鼻にかかった甘えた声で男性を見上げた。
「私、やっぱりこの人にする。だから、アルトとの婚約はなかったことにして頂戴」
「何を言ってるんだ。もう、町の人にも公示したのに」
「婚儀の話と日程だけで、相手が誰とは明確に言ってないじゃない」
「お前が、どうしてもと言って説得した相手だったろう」
「気が変わったの。やっぱり、洟垂れ時代から知ってる人なんて、つまんない。紹介するわ。シエロよ。もう私、彼にゾッコンなの」
口を挟む隙もない。
ぐわんぐわんする頭で、シエロは必死に状況を掴もうとした。その間にも、親子の会話が飛び交う。
「アルトには、何と言うつもりだ。彼は、三代に渡ってウォルトに仕えてくれた忠臣だぞ。それを、そんな、どこの誰とも分からん奴を」
「そこがいいんじゃない。彼、いろんなところを旅して、話を聞いているだけで楽しいの。竪琴も素敵だし。何より、こう見えて、とてもしっかりしていて大人っぽくて」
頬を赤らめ、キャロルはシエロの肩へ頭を寄せた。巻き毛が顎を擽る。湿った吐息が首筋にかかった。演技と分かっていても、色恋沙汰など経験のないシエロは、ただただうろたえた。
「ちょ、キャロル」
どうにか口を挟んだが、長いスカートの陰で思い切り足先を踏まれた。痛みを堪え、顔を伏せる。それをまた、キャロルに上手い具合に使われた。
「あん、もぉ、シエロったら、照れちゃって。ね、だから、お父様お願い。みんな、お父様の言うことならなんでも聞いてくれるじゃない」
「しかし、式の準備は、もう」
「行きましょ、シエロ。部屋へ案内するわ」
ぐい、と腕を引かれた。娘を呼び止める声を無視して、キャロルは軽やかに階段を上った。やむを得ず、シエロも駆け上がる。
呼吸が浅くなる。眩暈がする。
何がなんだか、さっぱり分からない。
どうやら、とても厄介なことに巻き込まれてしまったことだけ、はっきりとした。
どうしたらいいのか。
部屋の扉が閉まるなり、気管が狭まった。胸を押さえ、シエロは上体を折った。咳が止まらない。
「ちょっと、大丈夫?」
慌てたキャロルに支えられ、どうにか長椅子までたどり着いた。革張りの背もたれに身を投げる。
「水、くれますか」
どうにか伝えると、彼女は真剣な眼差しで頷いた。やや青ざめているように見えるのは、窓のすぐ傍に茂る葉を透かして差し込む光のせいだろうか。
硝子が触れ合う音がする。
シエロは、震える手で懐を探った。常備している薬を取り出す。いつ何時襲撃されて荷物を残して逃げても、薬だけは手放さないよう、貴重品の中に入れていた。
咳の合間に、どうにか口に含み、渡された水で流し込む。喉を滑り落ちる水は、かすかに薔薇の香りがした。
グラスが手から離れた。コトリと、テーブルへ置く音が近い。
ゼイゼイと浅い呼吸を繰り返す。キャロルに断って、襟元と帯を緩めた。対処方法は、幾通りかファラに教わっている。
「横にならなくていい?」
気遣うように問われた。
頷いた。横になるほうが辛い。
「喘息?」
二度目の問いに、また頷いた。
「そう。走らせて、悪かったわ」
謝るのは、そこだけだった。
ゆっくりと、意識をして呼吸を整えていく。胸の苦しさを押し込め、細く息を吐く。
それで、と、シエロは、長椅子の隣でもう一つのグラスを傾ける彼女を恨めしく見上げた。
「アルトさんと、結婚したくないから。僕を、連れ込んだんですか」
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