キャロル・ウォルト
振り返ると、一台の馬車が停まっていた。
開いた扉の前に、シエロと同じくらいの年頃の女性が立っていた。腰に手を当て、胸を張っている。上等な艶のある布地は、たっぷりのひだと繊細なレースで飾られていた。城主の関係者かと馬車を見上げたが、それらしい紋章はなかった。
「さっきの笛は、お前なの?」
外で聞いて、待っていたのか。
女性の目的が分からない。
警戒しながら頷くと、彼女は勝気な目を細めた。ツンと鼻を上に向ける。顔を縁取る巻き毛が揺れた。
「お前の音楽を聞かせたい者がいる。屋敷までおいで」
演奏の依頼なら、受けても構わない。ただし、笛でなく、竪琴になるが。
その旨を確認すると、女性は唇の端を上げた。
「なんだって構わない。立ち話もなんだから、馬車に乗りなさい」
腕で扉を示す。馬車の後ろに控えていた召使が音もなく近付き、扉を支えた。
女性は、服の裾と巻き毛を翻した。先に馬車へ乗る。
シエロは、そっと、ファラとレミと顔を見合わせた。
別段、危険はなさそうだ。
だが、なにか、安心できない感じもある。
とりあえず、従ってみよう。
馬車へ乗り込んだ。革張りの椅子はほどよく綿が詰められ、弾力があった。
続いて乗り込もうとするファラを、召使が制した。
「楽師のみでお願いします」
慇懃だが、威圧的だった。
「ちょ」
それならば降りようと、腰を浮かしたシエロはうろたえた。椅子についた手首を、女性がしっかりと押さえつけている。
「用があるのはお前だけ。追跡したって無駄よ。魔術も用意している。それに、こちらには、獣人であろうと退けるだけの兵もいる。『魚の夢』もそろそろ包囲完了の頃合ね」
荷物を預けている宿まで押さえられている。
シエロは、まじまじと女性を見た。
不敵な笑みを湛えた青い目は、底なしの湖のように凪いでいる。
竪琴の枠を握った。
レミの唸り声が聞こえる。シエロは、ふたりへ声をかけた。
「僕一人で、大丈夫だよ。待ってて」
努めて穏やかに手を振った。
扉が閉まる。馬が鬣を振った。車輪が石畳で軋む。物言いたげなファラとレミの顔が、次第に遠ざかった。
隣の席で、女性は鼻先で笑った。
「物分りが良くて助かった」
「どうするつもりですか」
シエロは、竪琴を抱えた。刃先のない槍も、宿に置いてきた。持っているものは、竪琴と笛と、懐の貴重品だけだ。
降竜碑で命を狙われた恐怖が、じわじわと蘇る。
可能性が、ないわけではない。
女性は、小さく笑った。スカートを揺らし、脚を組む。
「どうもしなくていいわ。ただ、私の言うとおりに動いてくれたら。ああ、一応、名前を聞かせて」
「シエロ、です」
「どこのシエロ?」
退屈そうな問いだった。が、シエロは口を閉ざした。
王が、操竜の乙女の末裔を城へ連れ去るこんにち、ムジカーノの名を簡単に明かすことはできない。かといって、手頃な偽名も浮かばない。
「ま、いいわ」
しばらくシエロの答えを待っていた女性は、ニヤリと笑った。
「私はキャロル。キャロル・ウォルト」
あっさりと名乗り、キャロルは首元の巻き毛を後ろへ払った。窓の外へ目をむけ、付け足す。
「ビューゼント王国建国以前から続くウォルト家の、一人娘よ」
馬車は、がらがらと音をたて、石造りの塀に沿って走った。
シエロは、そっと彼女の横顔を窺った。
名前を尋ねた、ということは、彼女の目的は「シエロ・ムジカーノ」ではない。
シエロたちは、今日の昼前にバロックンに入ったばかりだ。
本当に、笛を聞いて思いついたのか。
違う、とシエロは息を吐いた。思いつきにしては、用意周到だ。
むしろ、誰でもよかったのではないだろうか。あらゆる相手を想定して準備がなされている。
兵は、もしかしたら、虚言かもしれない。しかし、魔術は本当だ。
さっき、窓の外を、純白の小鳥が横切った。後を追ってきたファラだ。けれど、あらぬ方向へ遠ざかっていく。目くらましの術にはまり、幻の馬車を追ってしまったのだ。
ウォルト家は、それだけの財力を持っているようだ。旧家らしいが、初めて聞く。どのような家柄なのか。
名乗りを上げただけで、キャロルは窓の外を見続けている。口元に、悪戯っぽい笑みを浮かべたままだ。
だが、それは、どこか作り物めいていた。はっきりしないが、違和感がシエロの中で燻った。
笑みに隠されているのが殺意ならば、窮地だ。
シエロの手は、じっとりと汗ばんだ。
蔓薔薇が這う角を曲がると、鉄の門を潜った。
通り過ぎた直後、門は金属音をたてて閉じられた。太い閂がはめ込まれる。
道の両側から、葉を茂らせた枝がアーチを作る。手入れの行き届いた、森のように広い庭が続いた。
やがて、レンガ造りの建物が見えてきた。くすんだ青色の屋根が陽光を反射させる。塔がないから、城ではない。だが、相当な邸宅だ。
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