焦り
カヌトゥの惨状を目の当たりにしてから、シエロの心には、ずっと、生き残りの少女の後ろ姿が焼きついていた。
その後、フラットの研究書を頼りに、竜の痕跡がある場所を数箇所巡った。が、どこにも、目ぼしい手掛かりはなかった。
そうしているあいだに、王は、周辺国へ侵略を進めている。行く先々で、兵が集められていた。スティン国が下ったとも聞いた。
季節も移ろう。萌黄色だった山は緑を濃くし、ただ座っているだけでも汗ばむようになった。
建国祭の夏が、近付いていた。
焦りと無力感。表面に出さないよう、気を配っていたが、赤子の時から面倒を見てくれるファラには、筒抜けだったのだろう。
「楽しかったよ。惜しむべきは、通しで吹けなかったことかな」
笑顔を作りながら、苦痛を押し込めた。
楽しかったのは、事実だ。しかし、最後の一音が消えたとき、それまで目の前にあった母や団員の幻も消えた。
王都の天幕で、陽気に踊り、歌った仲間は今、どうしているのだろう。王城の地下牢に閉じ込められているのか。命だけは、無事だろうか。
彼らを助けるため、竜を探さなければならない。
それも、本当に守られるか保障のない約束のために。
気持ちは曇りがちになる。移動中の口数も減った。宿に着いても、率先して買出しに行ってくれるシドとレミに甘えて、ただぼんやりと竪琴を爪弾くだけだ。
二人にも、気を遣わせていただろうか。上目遣いで窺うが、美味しい果実を堪能する二人は満足そうだ。食事で気持ちを晴らすことができるとは、羨ましい。
「じゃあ、夕方まで俺はどっかの辻で話を集めてくる」
膨れた腹を摩り、シドが立ち上がった。魔導師として、占いや探し物相談を受けながら、それとなく町の情報を集めるのが、彼の役回りだ。
「シエロ、どうする? 休んどく?」
場合によっては警護につくと言下に臭わせ、レミは口元を布巾で拭った。
そうだな、とシエロは考えた。
「古い大きな図書庫があるって聞いたから、そこで目ぼしい資料がないか、見てこようかと」
「じゃあ、入り口までついて行こう。その後、警備隊の詰め所で手伝えることがないか、聞いてくる」
犯罪には、その町の社会不安が反映されやすい。もし、手伝えることがあれば、町の治安維持を手伝う。それが、レミの情報集めの方法だ。
星読みが、竜の目覚めを予言している。
では、竜が眠っているのはどこか。
手掛かりを求め、古書を漁る。シエロにできることは、それくらいだった。痕跡を集め、ひとつずつ当たるしかない。
「それこそ、さあ」
シドが大きく伸びをした。食堂の低い天井から下がるランプに手が当たりそうになる。
「あの珠で探せると、楽そうだけど。そうもいかないのか」
ソゥラからもらった魔道具の珠は、これまでに二度、シエロの願いを叶えてくれた。ビューゼント王国で最強の魔導師だったシドの師匠カーポにも呼び出せなかった竜だが、眠る場所くらいなら、願えば教えてもらえるかもしれない。
だが、シエロは首を横に振った。
期限前日になり、母達を救うために竜を呼び出さなければならなくなったら、使うかもしれない。しかし。
「そんな、本気で願えないよ」
フラットは、自分のことだけを、つまり母や仲間を救うことだけを考えればいいと言ってくれた。それでも、シエロの迷いは拭えていない。
己の私欲を満たすため強大な力を得て、周辺国はおろか北に広がる大国にも攻め込もうと考えているディショナール王に、竜を渡して良いのか。
本心を言えば、無用な争いを拡げる手助けなど、したくない。
大国は確かに、圧力をかけてくる。容易に屈したなら、ビューゼント王国は属国となり、民は奴隷扱いされるだろう。
だからと言って、安易にこちらから攻め込んでいいのか。大国には大国の民がいる。シエロたちと同じように、仲間とささやかな幸せを楽しむ人々がいる。
どちらも傷つかず、事態を収める方法を求めるのは、浅はかだろうか。
食堂には、大らかな談笑が満ちている。
この平穏を、竜という存在が奪ってしまうなら、むしろ、竜が永遠に眠っていられるように願いたい。
店を出る時、最初に歌いだした男達が手を差し出した。彼らも、旅の装束だった。
応えて掲げた手で、軽く掌を打ち合わせ、親指を立てる。
「旅の無事を!」
祝福を言い合い、外へ出た。日増しに強くなっていく陽射しが眩しい。足元の石畳には、くっきりと黒い影が落ちた。
シドと別れ、図書庫への道を確認して、踏み出す。
馬のいななきが、背後から聞こえた。
「そこの楽師」
高圧的な女性の声に、レミが剣に手をかけた。
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