水脈の町バロックン
喜びの歌
昼さがりの食堂は、繁盛していた。
だが、シエロたちは最後の方の客だったのだろう。入店した時、半分ほどの客は、すでに空いた皿を前に談笑していた。
頼んだ料理が運ばれたところで、広い食堂の片隅から、賑やかな拍子が聞こえてきた。
何事かと、シエロは入り口に近い一席を透かし見た。
数名の男性が、手拍子を打って歌っていた。一人がテーブルの間で踊り始めた。周辺の客も、食事の手を止めて囃し始める。
「ああ、この歌」
シエロも、頬を緩めた。
喜びの歌だ。なにかいいことがあったときの歌。特別なことでなくてもいい。日常のささやかな喜びを分かち合う歌だ。
技芸団でも、時折演奏した。誰かの誕生日、興行が上手くいったとき、大技に苦戦した団員が成功させたとき。母が笛を吹き、普段は歩くのすら億劫そうな太った団長も、腹の肉を揺すりながら陽気に踊った。
「懐かしいですね」
ポツリと、ファラが呟く。脂の滴る揚げ肉を頬張るレミも、尻尾の先で拍子をとった。
陽気が、食堂全体に行き渡る。
「へい、へい」
踊りの輪も広がった。
シエロは、おもむろに笛を取り出した。
技芸団が襲撃されたとき、シエロを庇った母が密かに懐へ落とし込んだ笛。
客の歌に合わせ、しばらく指でなぞる。歌の盛り上がりに合わせ、口をつけた。
突然の笛の音に、客が振り返った。軽やかな旋律に喝采する。踊り手がさらに増えた。近くで手拍子を打っていた若者が、シエロを輪の中心へ引き出した。
「シエロ様」
気遣うファラへ、大丈夫と軽く頷き、シエロは引かれるまま輪に入った。移動に紛れ、吹くのを中断して息を整える。苦しくないといえば嘘になるが、最後のサビを吹くだけの呼吸は確保できそうだ。
最初に踊り始めた男性が片目を瞑った。ここからが正念場だぞと、目が語っている。挑発に力強く頷き、シエロは息を吸った。
テンポを速めた歌に合わせ、変奏を加えた。軽くステップを踏む。息があがる。音が時折乱れる。しかし、人々の陽気は、それすらも盛り上がりのひとつとして沸き立った。
最後の高音を奏で、シエロは息を吐ききった。反動で肺を満たす空気にむせる。
「やるな、若いの」
あちらこちらから伸びた手に背をたたかれ、シエロは破顔した。口笛が飛び交う。誰かが、硬貨をシエロの懐へねじ込んだ。
「え、そんな」
慌てて返そうとするシエロへ、次から次へと投げ銭が集まった。
「いいんだ、坊主。受け取っておけ」
だみ声に従い、結局、ありがたく受け取ることになった。
「なんか、過去最高かも」
すっかり重たくなった懐と、店主が差し入れてくれた果物の盛り合わせに苦笑して、シエロは席に戻った。
「いや、いい笛だったよ」
早速果物にかぶりつきながら、シドがモゴモゴと褒めてくれる。
「シエロの本職だもんね」
レミもまた、果汁たっぷりの葡萄を口へ放り込んだ。
柑橘類や桃、梨もある。彩りよく盛られた多彩な果物はどれも、このバロックン周辺の果樹園で採れたものだそうだ。
町が豊かで、衣食が満たされていると、人々も陽気なのだろうか。
それぞれの談笑に戻った客を眺め、シエロはそっと息を吐いた。
ファラに差し出された水へ、口をつけた。
「大丈夫ですか」
気遣わしいファラの、大きな黒目で問われ、シエロは首をかしげた。飲み込んだ水が、柔らかく喉を潤していく。
「う、ん。あれくらいなら、息も大丈夫」
喘息のことだろうかと答える。だが、ファラの表情は、変わらないのはいつものことだが、曇りが取れた感じがしなかった。
いえ、と言いよどみ、ファラは視線を落とした。
「ご無理を、されているようだったので」
ツキン、と胸が痛んだ。
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