複写魔導帳
出発の支度をしていると、フラットが、部屋の奥から一冊の分厚い本を持ってきた。
「これが、わしの研究成果を最も凝縮した一冊だ。よければ、持って行くがいい」
一睡もせず、本の山から選び出してくれたのだろう。目が赤く、隈ができていた。重そうな瞼を擦り、緑色の表紙に積もった埃を袖で拭う。
「あ、ありがとう」
ぎこちない礼になってしまったのは、その重さからだった。シエロの腕では、両手でも辛い。
よろめく姿を見かねたのだろう。シドが、複写魔導帳を取り出した。
「じゃあ、コピ……複写させてもらいます。シエロも、シャープさんも、複写過程を見たいって言ってたし」
言い訳もあっただろう。だが、シャープは分かりやすく興味を露にした。
「はい、はいっ。是非とも!」
「何を言うか。目で読み、頭で理解し、手で書き写すことに意味があると教えただろう」
ぶつぶつと老研究家は不満を並べたが、目は、好奇心で輝いていた。
では、と、シドは他の本を避けて作った床面へ、フラットの研究書を置いた。表紙は閉じたままだ。
そこから杖の長さ分、細長く床を片付けると、複写魔導帳の、まだ何も書かれていないページを開いて置いた。
杖の石突を研究書の上に、透き通った赤い珠を複写魔導帳の上になるよう掲げる。膝をつき、杖の中ほどに掌を翳した。
静かな詠唱が流れる。
研究書の表紙が持ち上がった。
「わあ」
思わず声が出た。丸くしたシエロの目の前で、研究書のページがひとりでに浮き上がり、次から次へとめくられていく。
「ほぉ」
フラットも、曇った眼鏡を指で押し上げた。
全員が凝視する中で、杖の石突が光り始める。その光が、次第に珠へ流れ、細い光となって白紙のページの表面を走る。
弧を描き、真っ直ぐ走り、細かく折れ曲がる。
光の軌跡は、魔方陣を形成していく。やがて、黒っぽい色になり、定着した。
研究書の裏表紙が、パタリと被さった。最後の光が珠から離れ、羊皮紙へ吸い込まれる。
「完了」
「お見事」
シャープが跳びあがって拍手をした。少し離れた壁際で腕を組んで見守っていたファラも、珍しく興味をひかれたようだ。首を傾げ、羊皮紙に描かれた魔方陣を指でなぞる。
「これを、昨日のように呼び出すのですね」
「そ。直接頭に書き込めればもっといいんだけど、生憎そうはいかなくて」
苦笑し、シドは昨日、魔術書を呼び出したように、記録したばかりの研究書を呼び出した。数ページを見比べると、確かにそっくりそのまま書き写されている。巻末のフラットのサインや、途中のインク溜まりまで、全く同じに再現されていた。
「全部読むのに、ふた月はかかりそうだな」
レミもまた、シドが魔術でめくるページを覗き込んで溜息をついた。
「まあ、全部は読まんでもいいが」
フラットは、原本の最初から数十ページのところを開いた。
ビューゼント王国の簡易地図だった。数箇所に、短い線を交差させた印があった。
「竜にまつわる話が伝わっている場所だ。ここが、降竜碑」
太い指で示された印から、斜めに下った一つの印を押さえた。
「山道を行くと、この、カヌトゥの集落へ出る。地の声を聞く民の集落だ」
「地の声?」
初めて聞く。シエロはファラを見上げた。
何かを察した様子で、しかし、ファラは沈黙のままフラットを見つめた。フラットは、ちらりと弟子へ視線を投げる。
「降竜碑に参拝する人の噂で、星読みが、近いうちに、強大な力の目覚めが来ると予言したそうです」
「それは」
「ええ。竜と呼ばれるものと思われます」
背筋がゾクリとした。見上げたシャープの眼差しは、真剣な色をたたえていた。
「過去の竜の痕跡を辿ると、星の巡り以外に、地の巡りも関係しているようなのです。カヌトゥの民は、この地に王国が建てられる以前からの民ですが、地の声に従い、竜を語り継ぐ人々なのです。もしかしたら、今、竜がどこに眠っているか、手掛かりを知っているかもしれません」
しかし、と難色を示したのは、レミだった。
「カヌトゥの民は、閉鎖的だ。余所者をとことん嫌う。話をさせてもらえるかな」
「それなんですよぉ」
シャープが肩を落とした。
「私も、かれこれ十回以上訪れたんですけどね。一度も村へ入れてもらえないんです。この前も、秋に訪れたんですが、駄目でした」
しかし、手掛かりがあるなら行ってみなければならない。
それから、と、フラットは再びシャープへ目配せをした。頷いたシャープの表情が曇る。
「王が、スティン国へ出兵したそうです」
「なんだって」
いち早く反応したのも、レミだ。
レミの町クリステは、産出した鉄鉱石を、隣の小国スティンに輸出していた。
「それって」
シエロが見上げると、シャープは硬い表情で頷いた。
「製鉄技術者を、配下に置きたいのでしょう」
「オーケスティンに攻め入る準備だ。大量の武器を、用意するつもりだろう」
苦々しく、フラットが続けた。
「カヌトゥの郷までの道は、国境近くも通る。充分に気をつけて行くがいい」
シエロたちは顔を見合わせた。固い表情で頷きあう。
礼を言い、シャープに示された山道へ出た。枝を払っただけの、細い道だ。時折、小動物が、足元の枯れ草をカサコソ鳴らして走っていく。
「こんな山の中にも、集落があるんだね」
人目を避けて、ひっそりと。
どのような人たちなのだろうか。どうすれば、話をしてくれるだろうか。
シエロは、槍の柄を持っていないほうの手で、竪琴の入った荷物を引き寄せた。
不安は積もる。
けれど、前に進まなければならなかった。
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