脱出

 昼に、鉱山で耳にした噂を思い出した。

 最近開いた鉄鉱石採掘現場の作業員が、妙に結束が強い。

 監督にあたる役人の指示に従わないのは、よくあることだし、作業の協調性はなく効率が低い。

 だが、目の届かないところで無言の会話が繰り広げられているような、項の毛が逆立つ空気を感じた。

 もし、彼らからの襲撃だったら。

 相手方の規模は分からないが、放火を許した時点で、父や兄の劣勢は確定だ。

 扉を押すが、特別頑丈に作られた扉と鍵は、容易に破れない。

 次第に部屋が暑くなった。石造りの壁を伝い、熱が上ってくる。

 部屋を見回しても、手頃なものがない。武具の代用になるものは昔から排除されていた。

 不意に、部屋が暗くなった。

 窓を振り返ると、影に覆われていた。ギョッとしてよく見れば、二度助けた旅の少年が逆さにぶら下がっている。

「何、やって?」

 歩み寄ろうとしたレミに、少年は首を横に振った。口をパクパクさせ、手をパタパタさせる。

 離れろと、言うことだろうか。

 扉まで下がると、嬉しそうに笑う。

 少年は、窓になにやら塗りつけた。硝子の外側が液体で汚れ、白く濁る。そこへ、松明が近づけられた。

 窓一面に炎が広がり、少年が慌てて首をひっこめた。どうやら、上のどこかから縄でぶら下がっているらしい。

 塔の上部は、見張り台になっている。城壁の中央に近いこの塔の上からは、主に中庭や主要な建物の入り口が一望できた。

 それにしても、そこまでどうやって上ったのか。見張りが階下に居たはずだが。

 考えている間も、炎は硝子の表面を舐め続けた。

 どうするつもりなのか。

 呆然としていると、一瞬にして火が消えた。透明な液体が滴り落ちる。白く湯気がたつ。硝子が軋んだ。端から斜めに、ヒビが入る。

 そうか、とレミは口の端を引き上げた。

 油を塗り、火を点けて熱した硝子を急速に水で冷やす。硝子はもろくなる。

 続いて、煉瓦が打ちつけられた。厚い硝子が瞬く間に砕ける。枠に残る鋭い破片が丁寧に砕かれると、早く、と促された。

「どうやって上ったのよ」

 半ば呆れ、毛布と上着で窓枠を覆って、レミは上半身を乗り出した。

 上の見張り台から、縄が垂れていた。見張り台に常備されているものだと、分かった。問題は、そこへ上るまでの階段を、見張りに見つからず、どう突破したか、だ。

「ファラが、飛んでくれたから」

 楽師の少年は、煤けた顔で平然と微笑んだ。

「行こう。警備が混乱している今のうちに」

「まさか、あんたが何か」

 疑うレミに、少年は首を振った。

「誰かが、城を襲撃し始めたんだ。警備の人は皆、そっちに行ってしまったし、相手はこの塔に見向きもしていない。どうやら、用があるのは城主みたい」

 少年は再度、レミに上るよう言うと、縄を掴んだ。へっぴり腰で上る。

 父たちが心配になった。

 どれだけの集団が攻め入ったのか分からないが、無事だろうか。病が癒えたばかりの兄は、対処できるだろうか。

 様子を確認するにも、とにかくここを出なければならない。意を決し、レミは縄を掴んだ。

 見下ろせば目がくらむ高さだが、高いところは苦手ではない。縄を手に巻きつけ、引いた。少年とレミのふたりがぶら下がっても大丈夫そうだ。

 靴を脱ぎ、窓から体を出す。塔の外壁に足をかけた。

 見張り台を睨み上げる。

 と、視野が霞んだ。

 薬の効果が残っていた。グラリと視界が歪んだのは、ほんの数秒だった。だが、その間力を失った手が、縄の表面を滑った。

「レミッ」

 一度は近付いた少年の手が、見る間に遠ざかる。誰かの悲痛な声が耳を突いた。

 所詮、獣人として産まれた自分の命運は、ここまでだったか。

 レミは諦め、目を閉じた。

 地面は遠かった。いつまで経っても衝撃が感じられない。

 それとも、とっくに死後の世界へたどり着いたのか。

 妙に温かく、柔らかい感触に包まれている。

 不思議に思って目を開けると、光の粒に包まれていた。

「なに、これ」

「良かった。間に合った」

 すぐ側で、少年が笑った。

 少年の手が、レミの袖を掴んでいる。もう片方の握り拳から、光の粒は溢れ出していた。

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