鉱山の町クリステ
竜紅玉
シエロが覗き込んでいるのは、赤子の頭大の赤い石だった。陽光の半分は表面で跳ね返し、半分は内部に取り込み、複雑な形に光り輝いている。深い赤は、血の色を連想させ、最初は恐ろしかった。商人の勧めで見続けるうちに、透き通った石の奥で小さな光が踊るのが見えた。角度を変えるとチラチラと美しく瞬く。
「どうだね。『竜の心臓』って異名がある。手に入れれば、どんな願いも叶うと言われる伝説の石だよ」
囁きかける商人の息は、煙草臭かった。軽く咳をしかけたが、溜息で押し流した。
「いいものを見せてもらいました。ありがとうございます」
立ち上がり、今夜の宿を探しにいこうとして、厚い胸板に顔をぶつけた。
「おっと。こんな高価な商品を只で見て終わろうって言うのかい」
商人の仲間が、ニヤニヤと無精髭を指先で捻った。そうそう、と煙草臭い商人も、丸々と太った掌を突きつけた。
「見物料を、もらっていいかい」
「いくらですか」
「金貨十枚だよ」
素直に財布を探った手が止まった。
金なら、一応持っている。
魔導師の町マギクを発ってしばらく街道を歩いたところで、灰色の小猿が背後から跳びかかってきた。驚くシエロの前に、小猿は金貨の入った袋を落とした。そのまま、声をかける間もなく姿を消した。
かつては魔導師長を務めていたカーポが、何も持たず去ったシエロの遠慮を知って、小猿のトナに託したものだった。
だから、金貨十枚も、払えないことはない。が、技芸団で生活していた頃でも、金貨十枚と言えば団員十数名の一日分の食事にデザートをつけても余る金額だ。いくらなんでも、見物料としては高い。
ためらう手を、男に掴まれた。咄嗟に財布から手を離したが、反対の手を懐へねじ込まれる。
「なにすん……」
「おう、おう。十分持ってるじゃないか」
男の分厚い唇が歪んだ。大きな手の上で、金貨の袋を数回軽く投げ上げる。重さを堪能し、そのまま商人へ放った。
取り返そうと腕を伸ばしたが、指先を掠め、財布は商人の手へ落ちていく。
鼻先を、何かが掠めた。短い悲鳴と共に身を竦めたシエロの頭上で、男が呻く。同時に、商人も財布を受け取ろうとした手から血を流して喚いていた。
「見つけたよ、『影踏み』、と『竜の心臓』。盗難届けが出てたっけね」
投げ上げられた石が、乾いた音をたてぶつかり合って日に焼けた手の中へ落ちる。
腕を組み、男達を睨みつけている黄緑色の目には、どこか楽しげな色さえあった。背に流れた灰褐色の髪の間、こめかみと頭頂の間で、狼に似た耳が蠢いていた。
男が唾を吐いた。
「噂の、『クリステの狼』か」
「その噂で、どこまで知ってるのかな? 私に逆らわないほうが身のためだってことも、知っていてくれていると助かるんだけど」
余裕の笑みを浮かべる唇の間で、犬歯が光った。
獣人は、鳥人よりは知られている。王都でも、数回見かけた。一般の人より体力があり、雇用兵として要人に召抱えられることが多いと聞いていた。
しかし、目の前の獣人は、シエロが目にしてきた獣人と違っていた。
飾りの少ない服だが、生地は滑らかで艶がある。かなりの上品だ。雇用兵ではなく、雇う側の身分でなければ身につけることができない。
何より、柔らかく広がる裾、くびれた腰、豊かな胸。いかにも血の気が多そうながたいの良い男二人が怒りを募らせているのを前にして、楽しそうに笑みを浮かべている獣人は、うら若き女性だった。
男は、額から流れた血を舐めた。
「そっちこそ、知ってるか。クリステの狼を仕留めた者には、金貨千枚を超える報奨金が与えられるってね」
獣人の頬が、引きつった。それも、一瞬だった。
申し合わせたように、男が二人同時に踊りかかった。ひとりは拳を固め、正面から。商人は、腰の刃物を抜いて横から。
だが、獣人は冷ややかな笑みを湛えて立っていた。
迫る鉄拳と白刃にも、臆することなく超然と構えている。
シエロの目には、何が起きたか見切れなかった。
獣人は僅かに頭を傾けて拳を、片足を引いて白刃をかわした。勢いのまま突っ込んでくる拳の手首を掴み、後方へ引きながら屈めた身を半回転させ、男の懐へ肩を当てる。同時に、もう一方の手刀で商人の手首を打った。多々良を踏む商人の上へ、担ぎ上げた男の肉体を投げ落とす。
「ぐえ」
商人の背に顔面から落ちた男が呻く。強烈な頭突きを背中に受け、商人も気を失った。
どこかからか、警笛が響いた。
「おっと」
獣人は小さく肩をすくめると、シエロへ向かって舌をみせた。
「いかにもいい人顔してるって、自覚したほうがいいよ。もう、こんなしょうもないのに捕まるんじゃないよ」
煌く宝石の間に落ちていた金貨袋を拾って、シエロの腕に押し付けてくれた。
口を半開きにして立ち尽くしている間に警笛は近付き、獣人は何事もなかったように服の裾を翻した。近くで見物していた人の肩を訳あり顔で叩くと、そのまま市場の雑踏に紛れていった。
「こんなところに居られたのですか」
ファラが、食事を抱えて戻ってきた。待ち合わせた場所にシエロがいなかったので、だいぶ探したのだろう。髪が少し乱れていた。
似非商人の威勢の良い呼び声にフラフラと釣られ、挙句の果てにぼったくられそうになった不甲斐なさに、シエロはションボリとファラへ謝った。
「ご無事でよかったですけど」
ファラは、白目の少ない真っ黒な目で、集まった警備隊を見遣った。
獣人に肩を叩かれた人が、事件のあらましを話している。盗品だったという『竜の心臓』も回収され、男ふたりに縄がかけられた。
「で、こいつらを伸したのは、どんな御仁だったんだ」
警備隊の中で、最も身分のありそうな男性が柔らかく問うた。赤い石の額飾りが、彼の動きに合わせて揺れた。見物客は言葉を濁した。交わされる不安げな視線に、男性が密かに舌打ちしたのを、シエロは見逃さなかった。
人が散っていく流れに乗りながら、ファラが呟いた。
「また、厄介なことにならなければ良いのですが」
同じ事を、シエロも思っていた。
だが、悪い予感というものは、当たる確立が高い。
クリステは、鉱山の町である。
竜骨山脈の端にあたる山間を削って作られた領地に、畑は少ない。町の収入は、鉱石の採掘と加工、加工品の販売に頼っていた。
様々な鉱石を産出しているが、中心となるのが竜紅玉と呼ばれる赤い石だった。天然のままでも十分美しいが、より透明度を出し、色みを均一にするために、掘り出した後に特別な窯で火入れをする。
技芸団の衣装にも竜紅玉が使われていたので、シエロもなんとなく、そのような話を聞いて知っていた。が、実際にこの目で、加工現場を見ることになるとは、思ってもみなかった。
市場での騒動の翌日、昼過ぎ。シエロは、険しい山道を塞ぐ門の前で、呆然としていた。
「いやぁ、わたしゃてっきり、新人の鉱夫かと思ってぇ」
案内してくれた中年の女性は、眉の端を下げながらも穏やかに笑った。右の眉の上にある大きな黒子も、眉につられて下がった。
竜骨山脈へ入る道を教えて欲しいと頼んで連れてこられたのが、険しい山道の突き当たりにある鉱石加工場だった。
反応に困り、曖昧に笑って返すシエロの横で、ファラがそっと溜息をつく。半日かけて町から上がってきた時間と労力が、無駄になってしまったのだから、申し訳なさしかない。
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