新しい自分

 きつく縛った縄の端を切り揃え、シドは額の汗を拭った。腰を伸ばす。壊された庭も塀も、応急処置ができた。

 丸二日間寝台で過ごし、体力もすっかりもと通りになった。久しぶりの労働の快感を噛み締めながら、道具を片付ける。

 次は、室内の掃除だ。

 机の下にまで硝子の破片が散っている。机を動かし、押し込んでいたスクールバッグを、躊躇った後に持ち上げた。

 この世界に呼ばれて、何年になるだろうか。

 戻る手立てもないのなら、ここの住民になるしかないと割り切った。そのくせ、間違って召還されたとき着ていた制服や荷物を、処分できずに持ち続けている。

 表面に薄く被った埃を払い、ファスナーを開く。洗っても残ってしまった細かな泥が舞った。教科書と、高校の夏服、杖術の練習着、電池切れのスマホ。

 懐かしくもあるが、元の世界に戻りたいかと問われると、躊躇してしまう。

 どの時間に戻れるかにも、よるだろう。記憶を保持したまま、召還される数時間前に戻れるものなら、戻りたい。二時間でいい。そこから「紫藤隆之」をやり直せないなら、戻る意味などなかった。

 カラン、と奥の部屋で鐘が鳴った。トナが悪戯をしないよう鞄を仕舞い、師匠の元へ急いだ。

「わしから教えられることは、もうない。じゃが、シドには、まだ可能性がある」

 トナを通して用意したのか、師匠の枕元には旅装一式が置かれていた。

 さらに驚いたことに、カーポは、現役時代に使っていた、彼の赤い珠の杖を差し出した。先日、トナを通じて師匠が始動させるのを助けたはいいが、制御できず力を吸い取られ、危険な目に遭ったばかりだ。

「師匠、俺を買いかぶってませんか」

「わしの目を、疑うのか?」

 老いて尚、低く凄みのある声で睨まれ、シドは慌てて頭を振った。

「大丈夫じゃ。杖は、おぬしを選んだ。選んだからこそ、怒りに応えた」

 手に載せられた杖はズシリと重く、しかし、しっとりと馴染んだ。

「それに、シエロ殿には助けが必要であろう」

「ああ、あの少年。一体、彼は何者です」

 強力な癒しの魔法で、シドばかりかトナや師匠の命も救ってくれたと聞かされた。ひ弱で、どこか抜けている印象の幼い楽師が、なぜこの町へ来たのか。旅に出たと言うが、目的はなにか。城の魔導師に襲撃された後、眠っていたシドには、聞く暇がなかった。

「それも、見極めてきてほしい。この王国に立ち込めておる、よくない空気も気になる」

 目をすがめる師匠の視線を追って窓の外をみやるが、シドには何も感じられなかった。ましてや、自分やシエロが、師匠の危惧する空気を払拭できるとは、微塵にも思っていなかった。

 だが、自分を見つめる師匠の目には、真剣な光があった。

 城からは、城主直々に先日の事件について謝罪された。魔導師長の勝手な行動ではあったが、責任不行き届きを詫びられた。

 懇意にしてくれる近所の人もいる。師匠の身の回りのことも、引き受けてくれるだろう。以前ほど心配事がない。シドが留守にしても困ることはないはずだ。

 半ば無理やりだったが、自分を納得させるだけの理由がつけられたところで、シドは恭しく旅装を受け取った。

 近所の人に挨拶をし、市場で旅に必要なものを買い、袋に詰める。トナも、状況を把握してか、いつものように悪戯をせず、側で毛づくろいをしていた。

 前で合わせるこの世界のシャツは、杖術の道着に似ている。脇で紐を結びながら、ふと、スクールバッグを取り出した。畳み皺が刻まれた袴を広げた。

 高校生になって部活で始めた杖術だった。夏合宿後に受け取った袴は、まだ数回しか履いていない。先輩が教えてくれた着付けを思い出し、試行錯誤も交えて、なんとかずり落ちないよう紐を結べた。

 意外と、合っていた。広がる裾をブーツに入れ込めば、師匠が用意してくれた旅のズボンの替えになりそうだ。母が縫ってくれた杖用の袋も、少しきついが、師匠の杖を運ぶのに使えそうだ。

 好奇心に耐えられなくなったトナの手が、スマホを掴んだ。

「こーら」

 やんわりと宥め、とりあげる。不満そうに歯をむき出すが、いつもより素直に引き下がった。

 それが、物悲しい。

「俺が戻ってくるまで、師匠をお守りするんだぞ」

 小猿としてのトナがどこまで人語を解するものか分からないが、小猿は賢そうな顔で頷いた。

 師匠に最後の挨拶をすると、シドは外へ出た。春の風が、穏やかに吹いている。

「さて」

 あの少年の気は、覚えている。探し物魔術の詠唱を唱えながら、彼の、線の細い顔を思い浮かべた。年は、濁流に飲まれた妹と同じくらいだろうか。

 北西の方向に、反応があった。三日も歩けば追いつけそうだ。

 シドは荷物を背負いなおすと、踏み出した。

 小屋を振り返りたい誘惑にかられた。だが、奥歯を噛み締め、顔を行く手へ向けた。

 魔導師カーポ・サロヌの唯一の弟子として恥じないよう、背筋を伸ばし、毅然とした足取りで旅を始める。

 それが、今できる、精一杯の恩返しだった。



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