魔導師シド・サロヌ
いけないことを尋ねてしまっただろうか。後悔に俯くと、予想外に明るい声が返ってきた。
「まあな。ずっと遠くから来た。シド・サロヌだ」
ホッとするシエロの隣で、ファラが首を傾げた。
「サロヌということは、あの、カーポ・サロヌ殿のご親族であられますか」
シドは、片方の眉を上げた。肩をすくめ、やや寂しそうな笑みを浮かべた。
「カーポ様は、俺の師匠で、さっきトナを通して俺を止めたお方だよ。昔はマギク城仕えの魔導師たちを束ねる地位の人だったらしいけど、今は隠居されている」
招き入れられた小屋は、古びていたが奇麗に掃除されていた。茶を注ぐ手を止め、シドは奥の部屋へ続く扉を見やった。扉の向こうに、その師匠が居るのだろう。
差し出されたガディールを小猿に取られないうちにと、シエロは一口齧った。バータルのコクのある香りと甘さも、しんみりとしたシドの横顔に、ほろ苦く感じられる。
「師匠は、重要な召還の場でミスったことが、あ、失敗したことがあって。原因は、間違った魔方陣を書いた別の魔導師にあったんだけど、昔から師匠を妬んでいた奴らが図に乗って、今でも責任を取れと、押しかけてくるんだ」
シエロたちは、その者の手下と間違われたのだった。サクリと歯の間で崩れたガディールの欠片を、目も留まらぬ速さで小猿が拾い、口に入れる。膝の上に飛びあがられ、シエロは短く悲鳴を上げた。
「トナ」
叱責を含むシドに、小猿はヒラリと身を翻し、窓辺で毛づくろいを始めた。
灰色の毛に覆われた尾が、近くの籠の縁に巻きつく。ははぁ、と顎を撫でると、シドはゆっくり籠へ近付いた。トナは恨めしそうに大きな目を動かしたが、腹の毛を掻き分け、何やら摘んでは口に入れる。
「あった」
籠から、笛が抜き取られた。幸い、齧られたり乱暴に扱われた形跡はなかった。
「ありがとう」
受け取り、シエロは恨めしく睨む小猿に食べかけのガディールを差し出した。
「返してくれて、ありがとう」
小猿は、不服そうに歯をむき出したが、ちゃっかりと菓子を奪うなり、口に入れた。
「市場で一番美味いガディールと引き換えにしてもいいくらいの、大事なものなんだな」
苦笑するシドに、シエロは頷いた。なのに、うっかり取られてしまった不甲斐なさに悩まされる。
奥の部屋から、老人の咳が聞こえた。
様子を見てくる、と、茶を手にシドが部屋から出て行ったのと、にわかに表が騒がしくなるのと、ほとんど同時だった。
「あれって」
窓から外を窺い、シエロは蒼白になった。
魔導師と見られる数名の男達が、門扉の前に立ちふさがった。フードの下で忌々しく顔を歪めると、一人が詠唱を始めた。
「攻撃魔法です」
ファラに腕を引かれた。トナもまた、短く鳴くと飛びはね、奥の部屋へ突進した。
床に突っ伏した直後に、窓が割れた。尖った破片が降り注ぐ。鋭い切っ先が触れる前に、淡い光に包まれた。
「シド」
「奥の部屋へ」
指差され、急いでトナの後を追った。
当然、シドも共に避難すると思っていたシエロは、彼が戸口へ走るのを見て、慌てて引き返した。
「危ないよ」
だが、シエロの声は届かなかった。
鼓膜を強く圧された。戸口が木屑と化して飛び散る。突き出されたシドの杖を中心に、稲妻が走った。
「くっそ。しつこいんだよっ」
シドは、杖を振り下ろした。同時に、辺りへ満ちていた雷光は消え、薄くたなびく煙の向こうに、魔導師たちの姿が見えた。
「しつこいのは、そちらだろう。盗んだものを、大人しく返せばいいだけの話だ」
「あれは、元々師匠のものだ。盗んでなんかない」
そっと首を伸ばしたファラが、耳元で囁いた。
「あの外套、現魔導師長です」
男達に守られるように後列に立つひとりだけ、外套の縁飾りが他の者より豪華だった。
魔導師長というからには、強いのだろう。その上、多勢に無勢。
それでも、シドは一向に怯む様子がなかった。
「とっとと失せろ!」
杖を掲げる。薄赤い稲妻が、魔導師長の一行へ襲い掛かった。数名が庭へ踏み込み、シドの稲妻を霧散させる。
勝ち誇った笑みを浮かべたのは、シドのほうだった。
「うわ」
庭へ入った者たちが、次々に倒れ伏した。魔導師長が感心したように眉を上げた。
「これはこれは。結構な魔方陣だな」
稲妻で庭へ引き寄せながら、シエロが捕らえられた魔方陣を発動させたのだ。得意げに口端をあげるシドへ、魔導師長も含み笑いを投げかけた。
「まがい品であろうと、それなりの力がついたとは、興味深い」
「俺は、まがい品じゃねぇ」
「お前にその気があれば、私が城で調教してやってもいいぞ」
「誰が。てめぇのようなマッドサイエンティストに従うくらいなら、スクランブル交差点のど真ん中でまっぱにされる方がマシだ」
さっきより強い稲妻が発せられた。
圧に圧されながらも、ねえ、とシエロはファラへ問いかけた。
「シドは、何を言っているの?」
彼の発した言葉の半分くらいが、シエロの知らない言葉だった。長寿種族のファラなら、この世界の大抵のことに通じている。だが、ファラも小首を傾げた。
「さあ。私にも」
魔導師長が口端を上げた。外套の袖が揺れる。優雅な仕草で上がった腕に、シエロはゾクリと背筋を冷たくした。
『こっちへ』
いつの間にか側に来ていたトナが、シエロの腕を引いた。小猿と思えぬ強さだった。
「でも、シドが」
『いいから、中へ』
引きずられた。奥の部屋との境を越える際、魔術に疎いシエロにも感じられるほどに、はっきりとした防御の力があった。
薄暗い室内は、薬草の匂いに満ちていた。天井から、あらゆる薬草の束が逆さに吊り下げられている。壁は魔道具に隠され、床にも所狭しと大釜や鍋、石像などが置かれていた。
辛うじて人ひとりが通れる通路の先の寝台に、老人が腰掛けていた。頭髪は残り少なく、顔には数多の皺が刻まれている。伸ばした髭の先は、座った太腿に達していた。立ち上がることもままならぬ様子だったが、長い眉毛に半分隠された灰色の目だけは、らんらんと光を放っていた。かつて名を馳せた魔導師、カーポ・サロヌその人だった。
「ほう」
カーポは、シエロに続いて入室したファラに目を細めた。
「生きて、また鳥人に見えるとは、わしも運がいい」
「分かるんですね」
本物だ、とシエロは目を丸くした。変化しない限り、一目で鳥人と見抜ける人は少ない。
老人は、楽しそうに笑った。が、すぐに、乾いた唇を引き結んだ。
「あやつら、ケリをつけるつもりじゃの」
小屋全体が、軋んだ。吊り下がった薬草の束が揺れ、パラパラと砂状のものが落ちる。
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