第18話 洋館と夫婦(後編)
暫く歩いていくと、見慣れた男性の姿がみえた。
「あ、みんな。お疲れ様。待ってたよ」
手を振りながら声をかけてきたのは、カフェ店員の緑さんだ。
「瑠衣ちゃんも葉月ちゃんも、暑かったでしょう。河童さんもだいぶ疲れているみたいだし、一旦カフェで休憩していきなよ」
「あ、もしかして兄さんが言っていた休憩場所って」
「そう、うちのカフェ。紬に飲み物準備しておけって頼まれてね。さあ、行こう」
緑さんを先頭にカフェに向かった。歩いてすぐそこがカフェだ。数分も歩かないうちに到着した。
店内は冷房がきいていて涼しい。葉月と瑠衣はカウンター席に突っ伏した。
「涼しい」
「最高」
そんな二人の前に、グラスが置かれる。しゅわしゅわとした透明のソーダ。底の部分だけ薄っすらと黄色に色づいていて、その色合いが涼しげだった。輪切りにされたレモンと、ミントが浮かんでいる。
「特製はちみつレモンソーダ。どうぞ」
「ありがとうございます」
一口飲むと、炭酸の弾ける感覚と、レモンの酸味が舌を刺激する。熱さで疲れ切った体に染み渡った。
「美味しい。ありがとう緑さん」
「いえいえ。俺は紬に頼まれただけだからさ。河童さんも休めていればいいんだけど」
そう言って、紬は外の様子を気にする。
河童は店の外で水浴びをしていた。
普段は掃除のために使っているというホースをシャワーのようにして、河童は水を浴びている。まるで滝行のようだ。河童本人はそれで大満足しているようだった。
「本当は俺も洋館まで付き添えればいいんだけど。これくらいしか手伝えなくてごめんね」
「緑さんはカフェのお仕事もあるんだから、大丈夫ですよ。むしろここまでしてくれて本当に助かります」
店の席はお客さんで埋まっている。休日なのだから客も多いのだろう。店員は緑さん以外にもう一人、背の低い小動物のような印象の女性がいる。女性は忙しそうに動き回っていた。
「俺も、あっちで働いているもう一人の店員も、洋館の奥様にはよくしてもらっていたからね。今回のことはできる限り協力したいんだ」
「そっか、あの店員さんも妖怪見えるんですもんね」
女性の店員は、こちらに振り向いて会釈をした。このカフェで働く店員はみんな妖怪が見えるのだ。彼女もきっと洋館の奥様とは友だちなのだろう。
「三人とも、あとはよろしくね。河童さんのこと、ちゃんと洋館に連れていってあげて」
「任せてください」
特製はちみつレモンソーダを一気に飲むと、葉月は立ち上がった。瑠衣と紬も続いて立ち上がり、店を出る。
店の外では河童が滝行を続けていた。
「河童さん、そろそろ行けそう?」
「ええ。だいぶ潤いました」
それはよかった、と店先に出てきた緑さんが笑う。たしかに、河童の顔色はよくなった。
「よし、それじゃあ出発しようか」
「水の補充もさせてもらって、ありがとう緑さん」
瑠衣がリュックを抱えなおしながら言う。空になったペットボトルに、店の水道水を詰めさせてもらったのだ。
「いーえ。頑張ってね。紬、みんなのこと頼むよ」
「おう」
緑さんに見送られて、葉月たちは洋館に向けて再出発をした。ここから洋館まで、あと少しだ。
一度休憩したとはいえ、葉月たちの体力は随分削られていた。河童も、店を出てから何度も倒れた。そのたびに葉月たちが水を注ぐ。もう慣れてきてしまったその行為を繰り返す。
そうして、四人はやっとのことで洋館にたどり着いた。
「ああ、ここは昔と何も変わらない」
真っ白な外壁や、テラス、窓枠、庭。河童は洋館の隅々まで見渡した。
「皆さん、ありがとう。やっとここまで来ることができた」
「河童さん、まだ終わってないよ。中に入って、奥様に会うのが目的なんだから」
「そうでしたな――、彼女に会わなくては」
河童は正面玄関の前までいくと、扉を見上げた。躊躇しているのか、なかなかそこから動こうとしない。葉月は一歩ひいて、河童の様子を見守っていた。さらにその後ろでは、瑠衣と紬が控えている。
河童はそっと扉に手をかけて、意を決したように力を込めて押した。扉はゆっくりと開いた。
河童は恐る恐る中に足を踏み入れる。
広い玄関ホール。河童はぐるりと周囲を見渡す。塵も埃もない、綺麗すぎるこの洋館をみて河童は何を思っているのだろうか。葉月は河童の後ろ姿をみていた。
「ただいま、帰りました」
河童の震えた声が玄関ホールに響く。洋館はしんと静まり返っていた。
そこに、すっと衣擦れの音がする。
奥様が現れた。
今日も朱色のドレスをまとい、髪を結い上げている。
奥様は河童をみて、驚いたような顔をした。
その様子を河童の後ろから見ていた葉月は急に不安になる。
旦那様が河童になっていることを、奥様は知らないのだ。驚かせてしまうだろうし、もしかしたら河童が旦那様なのだと信じてくれないかもしれない。ずっと待ち焦がれていた相手が河童に姿を替えていたなんて、すぐには信じられないだろう。
そのことを葉月は考えていなかった。
奥様になんて説明しよう。それに、旦那様だと信じてもらえなかったら河童は悲しむだろう。
ああ、どうしようと葉月は焦る。
しかし、そんな不安は全て杞憂だったようだ。
奥様は暫く目を閉じた。そして再び目を開くと、まっすぐに河童をその瞳に映し微笑んだ。
「お帰りなさいませ。やっと、帰ってきてくださったのですね」
それはとても美しい微笑みだった。
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