第4話 洋館と奥様(後編)

 奥様は窓辺から戻ってくる。葉月は奥様の様子を眺めた。奥様の足元は、ぼんやりと透けている。後ろにあるものが、朱色のドレス越しに透けてみえた。そういうとき、葉月はなんとなく居心地が悪くなる。


 奥様は幽霊だ。


 明治の時代をこの洋館とともに生きた女性だった。若くして亡くなって、体を失いながらも精神だけは今でもこの洋館にとどまっている。

 きっと奥様が生きていた時代には使用人なども大勢いたのであろうが、今この洋館に住むのは幽霊の奥様たった一人だった。


「お父さんが、本を返すのはいつでも大丈夫だからって言っていました」


 葉月は鞄から三冊の本を取り出した。ハードカバーの本は思ったより重くて、鞄を提げる肩が痛かった。

 奥様は微笑んで本を受け取る。

 葉月の父は読書家だった。父の部屋には大きな本棚があって、所狭しと本が敷き詰められている。本棚に収まりきらなくなった本は部屋の隅に山積みにされていた。葉月は時々、奥様の頼みで父の所持する本を借りて奥様に届けている。もちろん父には了承を得ている。


「嬉しい。これで退屈しなくてすみますわ。最近はここに遊びに来てくださるのも葉月さんだけで、つまらなかったのです。緑さんはお元気かしら」

「さっき会ってきましたよ。元気そうでした。なかなかお店が忙しそうで、ここに来る時間が取れないみたいです。奥様によろしくって言っていました」

「そう。寂しいけれど、お元気でいらっしゃるのならいいのですわ」


 奥様は明治の時代からずっとこの洋館にいる。地縛霊とでもいうのだろうか。奥様はこの洋館から出ることができない。そんな奥様の退屈しのぎに、葉月はよくこの洋館を訪れていた。

 まあ、葉月自身この洋館のことが好きだから、進んでここにきているとも言えるのだが。


「奥様もこの洋館を離れることができたら、一緒に緑さんのカフェに行けるのに。あそこは人も妖怪も、みんなが集まれる場所なんですよ。飲み物もお菓子も美味しいし。奥様もきっと気に入ります」

「緑さんらしい素敵なお店ですわね。――けれど、わたくしはここを離れるわけには行きませんの。あの人を待っていなくてはいけませんから。いつ帰ってくるかも分かりませんし、わたくしが出かけている間に帰ってきたりしたら可哀想でしょう。お帰りなさいと、声をかけてあげなくては。それからこの洋館を長く空けていたことを叱ってあげないといけませんし」

「そうですね――」


 果たして奥様の待ち人は帰ってくるのだろうか。

 葉月は窓の外を眺めた。

 奥様はずっと人を待っている。


 奥様の夫でありこの洋館の主、旦那様は明治のある日を境に、出かけたきり洋館に帰ってこなくなったという。奥様があまり話そうとしないから、葉月も詳しいことは分からない。

 事故か、事件か。分からないけれど、出先で何事かがあったのは明白だろう。とにかく旦那様は帰ってこないのだ。昔も今も。


 帰ってくるのだろうか、旦那様は。

 奥様のように幽霊にでもなっていれば、帰ってくることはできるのかもしれない。でも、もし幽霊にもなっていなくて、もうこの世に存在しないのだとしたら、奥様は帰らぬ人をこれからも永遠に待ち続けるのだろうか。


 奥様は明治の頃から、生きている間も、亡くなってからも、旦那様の帰りをこの洋館で待ち続けている。明治の頃からというなら、百年は待ち続けているのだろう。

 百年待って帰ってこなかった人が、今更帰ってくるのだろうか。帰ってくる可能性は、限りなく薄いのではないか。

 けれど、葉月はそのことを奥様に言えずにいる。


「大丈夫ですわ、葉月さん」


 葉月の迷いを読み取ったかのように、奥様は優しく微笑んだ。


「あの人はきっと帰ってきますわ。そんな気がするのです。だからわたくし、何年だって待ち続けられますわ」

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