第15話 山と探し人(後編)

「ほんとに、洋館の旦那様、なんですよね?」

「ええ。明治の頃、首都からこの地を開発しに参って、あの別荘を造ったのです。妻と、数人の使用人を連れて、あの別荘で暮らしていた。妻は、私にはもったいないくらい、よくできた女性なのです。彼女とは洋館の辺りをよく散歩したものだ」


 河童は懐かしそうに遠くを見つめた。その姿は、とても嘘をついているようには見えない。

 この河童が、探していた旦那様なのかと葉月はまじまじと河童をみた。


「河童さん、どうしてこんな――、旦那様が帰ってこなくなった日のこと、聞いてもいいですか?」

「あの、雨の日ですな」


 大雨の日。この山で、旦那様に何が起きたのか。

 河童は息をはく。


「あの日、天候は見たこともない程に荒れていました。風も、雨も強く、街の人々は皆、家から一歩も出ぬようにしていた。私や妻も、洋館で大人しくしているつもりでした。けれどあの日、首都に住む母の容態が悪化したと知らせを受けたのです。私の母は、身体が弱かった」


 明治の頃、まだ今のように電話は普及していない。首都とこの街の間で情報のやり取りをすることには時間を要した。


「だから、早く母のもとに向かわなければと思ったのです。居ても立ってもいられなかった。こうしている間にも、母は死んでしまうかもしれない。妻は私を引き留めましたが、それを振り切って私は首都に向かおうとした」


 街から首都に向かうためには、山を越える必要があった。普段であればそう困難な道ではない。しかし、その日は違った。


「それはもう、酷い雨と風で。馬車は横転し、私は濁流の川の流れに投げ出されたのです。そのまま――、目が覚めたら私は河童になっていました」


 河童は川を見つめた。葉月も同じように川を見る。

 ゆるやかな水の流れだ。夏の日差しをあびて、水面がきらきらと光っている。この川で、河童が話すような出来事があったなんて葉月には想像ができなかった。

 奥様はどんな気持ちで、旦那様を待っていたのだろう。


「河童さん、奥様がずっと洋館であなたのことを待っています。帰ってあげてください」

「ええ、もちろん。もちろん、そのつもりですとも。何度も帰ろうとはしました。しかし、出来ないのです。山から館に帰る路の途中までは、川に水があるからいい。しかし、あの川は途中で水が途切れるでしょう。そうなると私はもう動けないのです。何せ河童ですから。水がないと動けない」

「まさか、街でよく倒れているのって洋館に向かっていた途中なんですか」

「ええ」


 葉月は額をおさえた。

 こんな身近に旦那様がいただなんて気づかなかった。

 街で倒れている河童に、どこに行くのかを聞けばよかった。そうすればもっと話は早かったはずなのに。


「なんで、言ってくれなかったんですか。言ってくれれば私、手伝ったのに」

「葉月さんの手を煩わせるわけにはいきません。それにどうしても、自分の足で館に帰りたいのです。あの日、妻は私の身を案じてくれていたのに、私は気に留めなかった。私の軽率な行動で、彼女を一人きりにさせてしまった。とても申し訳ないことをしました。だから、私は死ぬような思いをして、必死で彼女のもとに帰るくらいでないと、示しがつかないでしょう」

「そんな――、そんなの知らないですよ。奥様はもう百年以上ずっと、一人きりで待っているんですよ。これ以上奥様に辛い思いをさせてどうするんですか」


 葉月はつい声が大きくなる。

 無性に腹が立つ。

 葉月は奥様のことが大好きだ。そんな奥様を長い間ずっと一人にして、悲しませてきただなんて信じられない。

 そんな葉月の肩を紬が叩いた。


「落ち着けよ。俺には何も状況が分からないから、教えてくれないか」

「あ、――そうだよね。ごめん、紬さん」


 紬は妖怪の姿を見ることも、声を聞くこともできず、今一人だけ置いてけぼりになっているのだ。葉月はかいつまんで河童の話を聞かせた。

 紬に話している間に、葉月も少しは落ち着いた。しかし、納得はできない。腹の中に色々な感情がふつふつとしていた。

 紬は話を全て聞くと、なるほどと呟く。


「河童は意地でも自分の足で帰りたいわけだ。とはいえ、もう百年も帰れないままでいるんだ。このままだといつ洋館に帰りつけるんだって話だよな」


 それは、と河童が口ごもる。


「俺らも、ここまできて何もしないで帰るわけにもいかないし。ちょっとくらい手伝わせてくれてもいいんじゃねーの。別に、車で送るとかそういうズルみたいなことはしないからさ。最低限の手伝いだけでもさせてくれよ」

「そうですよ、手伝わせてください。私たちはそのために来たんですから」

「いや、しかしですな」


 河童の態度は煮え切らない。ああ、もうと葉月は叫ぶ。


「帰りたくないんですか? 帰りたいんですか? どっちなんです」

「それは――もちろん、帰りたいです」

「じゃあ帰りましょうよ」


 ううむと河童は唸る。

 再び苛立つ葉月を紬がなだめた。


「妻は」


 河童が呟いた。


「怒っていないのですか。愛想をつかしていないのですか。まだ私を待っていてくれるのですか。怖いのです、こんな私が彼女のもとに帰っていいのか」


 河童の言葉を聞いて、葉月は息をはいた。


「何度も言わせないでくださいよ。奥様はずっと待っているんです、旦那様が帰ってくることを」


 葉月の目をみて、河童は何かをこらえるように目を閉じた。


「私は、帰りたいです」


 河童の言葉に葉月は頷く。帰りましょう、と頷いた。

 葉月の様子をみて、紬はふっと微笑んだ。

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