第16話 洋館と夫婦(前編)

 山道がある。

 木陰で涼しいとはいえ、葉月と瑠衣の額には汗が流れていた。

 葉月と瑠衣は山道を登っている。二人とも、パンパンに膨らんだリュックを背負っていた。


「暑いね。今日は最高気温をたたき出しそうだって、朝ニュースでやっていたよ」

「えー、最高気温更新って最近よく聞くんだけど、どういうことなの。どれだけ更新する気かな――、でも善は急げってね。これ以上、奥様を待たせてられない」

「だからって、こんな暑い日にしなくてもよかったんじゃない」


 葉月は汗を拭いながら乾いた笑みを浮かべた。

 河童が洋館の旦那様だと知ったのが一週間前。葉月は居ても立っても居られず、翌週の今日、河童を洋館に帰す計画を実行すべく山に来ていた。

 今日は瑠衣も一緒である。紬も手伝うとは言ってくれたが、午前中は用事があるとのことで午後から来てくれることになっている。


「ここに来る前にふわちゃんと会ったんだけど」

「ああ、ピンク色のまん丸な子だっけ」

「そうそう。その子も暑そうにしてたよ。それに眠そうだった」

「まあ、まだ朝早いからね」


 水辺に出ると、河童が岩に座って待っていた。


「おはよう、河童さん」

「やあ葉月さん。そちらの女性はご友人ですかな」

「うん。幼なじみの瑠衣。この子も手伝ってくれるって。この前私と一緒にいた男の人の妹さん」


 葉月が瑠衣を紹介すると、瑠衣はぺこりと頭を下げた。瑠衣には河童の姿は見えないし声も聞こえていないが、話の流れを察してくれたようだ。


「さて、早速行こうか。今日は絶対洋館に帰ろうね、河童さん」

「はい。どうぞよろしくお願いいたします」


 葉月と瑠衣は川沿いを歩き始めた。河童はすいすいと川を泳いでいく。さすがに河童だけあって泳ぎは得意なようだ。河童が泳いだ後ろにはすーっと水の筋ができた。

 葉月は眩しそうに水面を見つめる。


「河童さん涼しそう。いいなあ、私も川の中入りたい」

「着替えもってきてないでしょう。駄目だよ。水遊びはまた今度ね」


 瑠衣はまるで子どもに言い聞かせるような口調で葉月を宥める。なんとなく葉月は不服だ。


「でもまあ、こう暑いと私たちもばてちゃいそうだよね。ちゃんと水分補給しながら行こうね」

「うん」


 葉月はリュックからペットボトルを取り出して、水を一口飲んだ。

 葉月も瑠衣も、リュックの中にはペットボトルを詰め込んできている。自分たちの飲み水用もあるが、河童用の水が大半を占めている。

 河童が洋館に帰るために一番重要なのが水だ。この街名物の水の流れない川。水が流れているうちは問題ないが、水が干上がったところから河童の戦いが始まる。水がないと体が渇いてしまうのだ。


 そのため、葉月たちは河童の渇きを潤すために大量の水を準備してきたのだ。

 しかし水の入ったペットボトルは思っていたよりも重く、リュックに詰め込みすぎたことを葉月は少し後悔していた。


「洋館の奥様と旦那様ってどんな感じなの? 私、妖怪が見えないからさ。ここまでついてきておいてなんなんだけど、奥様のことも旦那様のことも、よく知らないんだ」


 瑠衣は川を見つめる。河童がすいすいと泳ぐ様子は、瑠衣の目には映らない。瑠衣にはどのように川の様子が見えているのか、それは葉月には分からなかった。


「うーん、そうだな――奥様はすごく綺麗な人だよ。色白だし、お顔もすごく美人さんなんだけど、立ち振る舞いっていうのかな、そういうのも全部、凄く綺麗なの。それから旦那様は――、いい人かな。話し方も柔らかいし。いい人。なんだけど、でも奥様をずっと一人にしてたのは、まだちょっと許せないや」

「そうなんだ」


 瑠衣は困ったように笑う。そしてもう一度川を見た。


「いいね、妖怪がみえるのって」


 山を下り始めて三十分。次第に水の流れる音が小さくなってきて、水深もどんどん浅くなっていく。ついには川から水が消えた。石が転がるばかりになる。


「さて、問題はここからだね」


 洋館までは残り一時間ほど。その間、川に水は流れない。水がなければ生きていけない河童にとっては、ここからが大変な道だ。


「頑張ろうね、河童さん」

「はい。ご迷惑をおかけするかとは思いますが、助力のほど頼みます」


 そう言って、河童は乾いた岩に踏み出した。

 河童も加えて、三人で歩き出す。

 葉月も瑠衣も、すでに汗だくだ。ペットボトルももう何本か空になっている。河童のために温存しておきたいとは思うが、自分たちも喉が渇くのだから仕方がない。


「ほんと今日は暑いね、倒れちゃいそう」

「葉月が倒れたら、私がお姫様抱っこして運んであげるからね。心配しないで」

「そうですかー、それはどうもありがとう」


 瑠衣の王子様スマイルも輝きが鈍ってきた。葉月の反応にも普段のようなキレがない。

 山を下るにしたがって、木陰も減ってきている。直接陽が当たることによって、汗はどっと噴き出すようになった。


「暑い」


 二人は暑さに低く唸った。

 その隣りで。

 ばたりと音がする。


「河童さん!」


 隣りで河童が倒れていた。葉月がしゃがんで顔を覗き込むと、水、と小さく声が聞こえる。

 葉月は急いでペットボトルを用意すると、河童のお皿にどぼどぼと水を注いだ。丸々一本のペットボトルがすぐ空になる。


「河童さん、大丈夫?」

「ありがとうございます、生き返りました」


 河童は弱々しく笑った。おぼつかない様子で立ち上がると、再び歩き出す。まだ辛そうだが、なんとか歩けるようだ。

 そんなやりとりを、何回も繰り返した。

 河童にとって山から街におり、洋館にたどり着くことは本当に苦しいことなのだと葉月は思い知った。本当はもっと簡単に行けるのではないかと思っていたのだ。

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