第9話 古木と物知り(前編)

 平野に一本、巨大な木がある。

 大人が三人ほどで手を繋いでやっと足りるほどの大きな幹。その幹を中心に、左右に枝が伸び、葉が生い茂る。縦にというよりは、横に大きい。この地に目一杯枝を伸ばそうとしているかのようだ。

 横に伸びた枝は何本もの支柱にもたれかかっている。支柱がないと倒れてしまうのだ。それほどにこの木は大きい。


「仙(せん)さーん」


 木の根元に立った葉月は、頭上に向かって声をかけた。

 すると白い布切れが枝の隙間から見えて、ゆらゆら揺れた。すっと一番低い枝にまで移動して、そこに腰をかける人物がいる。

 白い着物。平安時代の絵巻物で見かけるような着物だ。顔には白い能面。さらさらな黒髪が腰まで垂れている。


「葉月は今日も元気が良い」


 ふふ、と能面の妖怪は笑った。


「仙さんは今日も一日中ここにいるんだね」

「私はここから人々や動物、妖を見守るのが使命ゆえ」


 仙さんはこの木に住む妖怪だ。

 長年ここから街を見守っているという。そのため物知りで、葉月なんかはよく彼に相談事をする。まるで仙人のような雰囲気だから、仙人の「仙さん」と呼んでいた。


「また相談事か?」

「違うよ。今日は仙さんと楽しくお喋りしようと思ってきたの。ほらみて、仙さんが好きなお饅頭。お母さんがたくさん買ってきたから、お裾分けしようと思って」

「おや、嬉しい」


 どうぞ、と饅頭を掲げれば、仙さんの白い手が伸びて来る。仙さんからはおばあちゃんの家の匂いがした。あたたかくて懐かしい匂いだ。


「ふわちゃんにもあげようと思ったんだけど、あの子お饅頭よりチョコとかの方が好きだからさ。知ってる? 紅葉並木のまん丸い妖怪」

「ああ、あのい子だな。食いしん坊は相変わらずか。しかし饅頭の良さが分からぬとは、惜しいことだ」


 仙さんは能面を少しだけずらして、饅頭をほおばった。

 仙さんは頑なに能面を取ろうとしない。葉月が最初に会った頃などは、食べ物をあげても葉月の前では食べようとしなかった。

 最近はこうして口元だけは見せてくれるようになった。形の整った唇。きっと能面の下にある顔は美人なのだろうと葉月は思っている。


「あの紅葉並木に住むのも中々に趣があるのだろうな。秋になるとそれはそれは紅葉が美しい。よく恋人が連れ立ってあの並木を歩くのを私は見ていたよ」

「あ、洋館の奥様も、昔はよく旦那様と紅葉並木を散歩したって言っていました」

「あの館の奥方か。そうであったな、仲睦まじい様子を見かけたものだ」


 葉月はここに来る前に、洋館に寄っていた。そこで奥様にも饅頭をあげてきたのだ。そして、そこでやはり紅葉並木の話になった。

 奥様は窓から紅葉並木の方角を見て目を細めた。


「あそこの並木は美しいでしょう。わたくし、よくあの人と一緒に紅葉を見に行きましたの。まるで現実ではない、どこか別の世界に迷い込んでしまったのかと錯覚するほど、あの道は美しいのです。二人で歩いていると、あの人がね、君は紅葉がよく似合うって言ってくださって――あら、これは惚気になってしまいますわね。お恥ずかしい」


 そう言って、奥様は口元に手をあてて笑った。

 葉月は紅葉の下で連れ立って歩く奥様と、顔も知らぬ旦那様を想像した。きっとそれは、とても美しい光景なのだろう。


「奥様には本当に紅葉が似合いますよ。なんというか、春とか夏とか冬じゃなくて、奥様には秋が似合います。綺麗で、華やかだけど、落ち着いた趣があるっていうか――すみません、私あまり言葉を知らなくて」


 けれど絶対に、紅葉並木に立つ奥様は美しい。

 奥様は頬を朱色に染めて微笑んだ。

 葉月はそんな奥様の様子を思いだして笑う。


「奥様、本当に旦那様と仲がよかったんですね。旦那様のお話をするとき、すごく嬉しそうだった」

「あの二人は、この辺りで仲睦まじい夫婦として当時から有名だった」


 仙さんはいつの間にかお饅頭を食べきって、面をしっかりつけていた。遠くを見つめて、昔を懐かしんでいるようだった。

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