恋の始まり篇 年長さんあおいの冬と春
あおい六歳 戻らないクリスマスの時間
京都市内のここは、とある産婦人科病院。さっきまでの土砂降りも、今は一転。快晴の青空に白い月が浮かんでいる。離れた場所からここを眺める人がもしいたならば、そこからここを結ぶ角度次第では、病院上空に虹があったかも知れない。
そんな爽やかな青空を眺める男が二人。赤井家二十九代当主の晋太郎とその次男の幸一郎だ。今日は幸一郎の妻、桃子の出産の日。第一子で長女の藍子に長男の貴志、そして次女の緑に続いて産まれそうなのは・・・。
幸一郎は三人の子の父なのに、晋太郎も七人の孫の祖父なのに、出産に馴れないと言うよりは、産科に男の居場所は少なく落ち着かず。それで晋太郎と幸一郎は、外のパーキングで缶コーヒー片手に煙草を燻らせている。
六人の孫娘が産まれたときは、いや、赤井家に女の子が産まれたときは、決まって雨降りで、近代から何故かそんな歴史の続いた赤井家。そのため赤井家当主、晋太郎の『女の子が産まれるはず』の予感は的中。ふと病院のドアに目を向けると、大柄な男が転ばんばかりの勢いで
「晋太郎さん幸一郎、産まれたぞ。可愛い女の子だ!」
そう叫びながら来たのは、赤ちゃんの祖父、黄大泉の武名を持つ武術家、赤井晋太郎の八極拳の同門の師兄弟。そして赤ちゃんの父の幸一郎の空手の師。また、そう遠くない将来、赤ちゃんの八極拳と空手の師になる、渡忠人先生だ。
明治の頃、潮に流されて日本艦に救助され来日したはいいものの、明日の生活に困っていたところを、通りかかった旧武家のお姫様の赤井葵に拾われた台湾人の黄響鐘。
その姓が黄家八極拳開祖の黄四海と同じなのは、たまたまの偶然だが、拾われた恩返しにと、必死に学び働いて、傾きかけた赤井家を葵姫と一緒に建て直した。それでいつしか葵姫に見初められ、入婿したのだ。もっとも入婿するはずだった赤井家の分家が、維新の戦で失われたためでもあったのだが。
さっき土砂降りから一転して快晴になった青空を眺めながら、そんな赤井家の歴史を思い浮かべていた、赤ちゃんの祖父、晋太郎にも、赤ちゃん誕生を告げる渡忠人先生の声は届く。
その赤井家中興の当主でありお姫様の赤井葵から、また赤ちゃん誕生に合わせるかのように一転し晴れた、青空に浮かぶ月から、赤ちゃんの本名を赤井あおい、武名を黄蒼月と名付けたのである。
産まれたばかりの、まだ赤ちゃんのあおいに武名を名付けるほどに、あおいの祖父晋太郎は、あおいを自身の道場の跡継ぎにする気満々であったようだ。
それから歳月は、あっという間に流れて、気づけば今あおいは六歳の、黒百合女学院山手校の幼稚部の年長さん。青空の月のように色白で、これぞ裕福なる末娘、蝶よ花よと育ったかのようなお嬢様。あおいを男の子みたいに逞しく育て、道場の跡継ぎにしたかった祖父晋太郎の期待は何処へやら。女の子らしい女の子になっていた。
いや、あおいの家族も赤井家の使用人も甘やかしてはいないのだが、お嬢様あるあるで、親戚達や近所の大人達、赤井家の経営する会社に塾や道場の従業員達が、要らぬ忖度してしまうのだ。
だからあおいは、わがままする必要を感じないほど、欲しいと思った物は周りに与えられ、結果、無口で内気な大人しい女の子になったのだが、その内気と無口が、あおいお嬢様のためにと、新たな忖度を生み出し、悪循環である。
そんなあおいお嬢様六歳の時空間は・・・
『わたしの夢
黒百合女学院山手校初等部 一年一組 赤井あおい
わたしは藍子お姉ちゃんの大好きだった、藍子お姉ちゃんのお兄ちゃん、真鍋の瞬お兄ちゃんが大好きです。
お兄ちゃんは、いつもわたしを守ってくれて、毎日遊んでくれて、勉強を教えてくれて、いつもお風呂に入れてくれてます。それから、わたしが元気になるように、空手や拳法も教えてくれます。
だからわたしは、お兄ちゃんのために頭のいい女の子になって、元気な女の子になって、そしてお兄ちゃんの可愛いお嫁さんになって、お兄ちゃんに美味しい料理をたくさんたくさん作ってあげたいです・・・』
今の時空間は、あおいがこの作文を書いた半年前の、あおいには戻ることのないクリスマスシーズンなのである。
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