第伍話【檜皮色の】
坊っちゃんの眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲っている人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような赤シャツである。
あれ? まとった服のその色は檜皮色だというのにどうして赤シャツなのか。ものの色がなんだかだんだん赤に見えてくる。遂に己が色彩崩壊してしまったか、そう思う坊ちゃんの目の前にいるのはやはりまぎれもなく赤シャツである。
そもそもここはどこなのか? 坊ちゃんが足下に目を落とすと床板の上に立っている。部屋は本格的にほの暗く、床板以外皆目〝具体的な存在〟に気づけない。
あれ? そもそも俺は王城で囚われの身となってはいなかったか? 坊ちゃんの思考は千々に乱れていたが、いや、今は床板よりも赤シャツだ、と己の精神を気付けする。
その赤シャツは、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。
坊っちゃんは、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。すると赤シャツは、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。
さては死体の髪からかつらを造るに違いない。即座にそう断定した。
「赤シャツめ……」坊っちゃんにまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。
だがここまでだった。この後の記憶がすぽりと抜け落ちている。この流れだと俺は赤シャツの着物をはぎ取り夜の大路へと駆け出すはずであると思ったのだが、いっこうに赤シャツの着物をはぎ取った記憶が頭の中に来ない。むしろ赤シャツのヤツは俺がそこにいるのに気づきながらその手を止めることもなく、どこまでもいつまでも死骸から髪の毛を抜き続けたような気さえする。
これはなにかの思い違いであろうか。
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