第参話【檸檬】
その日坊っちゃんはいつになくその店で買物をした。というのはその店には、珍しい檸檬(レモン)が出ていたのだ。坊ちゃんは店主にそう声を掛けたのだ。坊ちゃんの元々の世界では檸檬などごくありふれている果物だ。買い物をした〝その店〟というのも見すぼらしくはないまでも、ただ当たり前の八百屋に過ぎなかった。
八百屋。それは野菜を専門に売っている小売店。坊ちゃんはこの手の店にまるで馴染みはなかった。日々の生活の中にそうした店は無いのであるからそれも当然であった。過去の世界、ドラマやアニメの中にそうした店が出てきてもそれは背景の一部でしかなく、抱く感想も『あぁ野菜があるな』といった程度で記憶が頭の中をそのまま素通りしていたのである。彼は実際これまで生きてきて八百屋に檸檬が並んでいる光景など一切見てはいなかった。檸檬とは専らスーパーで売っている果物であったのだ。
八百屋で檸檬を買ったような気がしているが、そのような稀少店で気後れもせずよく普通に買い物ができたものだ。それにいったいなぜ檸檬など衝動買いしてしまったものか。坊ちゃんはその訳をぼんやりと考える。しかし答えが浮かぶことは無い。
結局坊っちゃんはそれを一つだけ買うことにした。思い出したのはこれだけだった。
さて、その後はどうだったか——坊ちゃんは考えるだけ考えた。が、記憶が一向に戻ってこない。
「その短刀をどう使うか、言えと言っている」赤シャツ王は威厳を崩さずしかし坊ちゃんに答えを督促した。
「その答えならもう言っている」坊ちゃんは言った。
「なんじゃと? ならば今一度言え」
「市政を暴君の手から救うのだ」再び坊ちゃんは同じ答えを答えた。これ以外の答えを思いつかなかったのである。赤シャツ王の眉間の皺の深さは一切変わることはなかった。
赤シャツ王と坊ちゃんは無言のまま対峙し続けている。これはかつて無いことであると群臣達の顔色が語っていた。赤シャツ王が次になにかを口にするまで誰も動きようがない。
その間坊ちゃんは己の記憶を必死になってたぐり寄せようとしていた。
異教の寺院のような建物を出て八百屋に声を掛け檸檬を買い、それからの坊っちゃんはどこへどう歩いたのだろう。坊っちゃんは長い間街を歩いていた。始終坊っちゃんの心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、坊っちゃんは街の上では非常に幸福であった。
そうだ。それを握った瞬間からだったのだ。俺は檸檬に救われた。あの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も! そう、幸福だった。街の上で!
坊ちゃんはふとここでこの得体の知れない陶酔から醒めた。
街の上? そこは空中じゃないか。街の上など歩けるはずがない。街の上を歩いていたような気がしているのはなぜなのか。あの多幸感はなんだったのか。
次に蘇ってきた記憶はさらにおかしなものになっていた。
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