第弐話【懐中の短剣】

 昨日の夜のことである。坊ちゃんは布団の中で悶々としていた。別に性的想像を頭の中に抱きそれがはち切れそうになっていたわけではない。遂に二十六の誕生日まで一ヶ月を切ったからである。

 悶々悶。悶々悶。

 それからいったいどれほど時間が経ったであろうか、いつの間にか坊ちゃんは深い眠りに堕ちていた。


 目が覚めた。どこだか解らない、広い広い広い石畳の上に坊ちゃんは寝かされていた。敷いてあった布団掛けてあった布団はどこにも無い。


 こんなところへ寝た覚えはないぞ、そう坊ちゃんは呟くにしては大きな声を出し上体をがばと起こした。

 薄暗い世界であった。どこかそれは宗教の、祈りのための建物であると直感した。それはとても気味の悪い、背筋がぞわぞわするような直感であった。

 坊っちゃんはよろりと立ち上がる。上体を起こしたときとは打って変わって緩慢な動作で。

 首を静かに回せば自然舐め回すようにものを見ることになる。坊ちゃんは注意深く周りを観察した。

 長方形の明かりを見た。間違いなくそこは出口だった。この建物の中から一刻も早く出なければ、再び直感が坊ちゃんに囁いた。坊ちゃんはそこを出たのである。



 いったいどこをどう歩いたのか、買い物袋を背負ったままで坊ちゃんはのそのそ王城に入って行った。しかし彼には買い物をした記憶が無かった。そもそもこの買い物袋自体に見覚えが無い。なぜ自分が持っているのか?

 王城に入るやたちまち彼は巡邏の警吏に捕縛された。調べられて坊っちゃんの懐中からは短剣が出て来たので騒ぎが大きくなってしまった。またしても坊ちゃんは己がなぜこれを携行しているのかとんと解らなかった。坊っちゃんは王の前に引き出された。その王は真っ赤なシャツを着ていた。

 坊っちゃんは激怒した。暴君赤シャツめ!


 ——暴君赤シャツ、そうだ思い出した! 買い物袋を取り上げられたのだ。背負っていた物をわざわざはぎ取られて。コイツめ、人の物をなんの権利があって奪うのだ。許せぬ。

 それで『かの邪智暴虐の王』などと思ったのだと、それを思い出したのだ。


「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」赤シャツ王は静かに、けれども威厳を以て問い詰めてきた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。


 暴君赤シャツ……改めてその顔をみているうちに自分の中にざわざわとした違和感がとめどもなく湧いてきた。

 なにかこの俺はこの顔を知っているような気がする——そのぐずぐずとした様子に業を煮やした赤シャツ王が再び一字一句違わぬ口上で坊ちゃんを問い詰めた。

「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」


「市政を暴君の手から救うのだ」と坊っちゃんは悪びれずに答えた。

 というのも坊ちゃんはこのところ『暴君と戦う』という趣味的活動に勤しんでいたのである。国会議事堂前に集まり大声でなにかを叫び踊り、周りには想いを同じくする人々がいてまるで自分が何者かになってしまったような突き抜けた力、その熱い力が身体の中に奔流の如く流れ込んで来る内面の沸騰を感じていたのだった。その間は歳のことなど忘れられていた。


「ほう、それはこのわしを殺すという意味か」赤シャツ王は言った。

 その時である。唐突に坊ちゃんの中に記憶が戻ってきた。あの買い物袋の中身を思い出したのである。

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