第23話 潮騒の声
家に帰って本を読もうという竜二の言を退け、海人は海に向かった。行く先は沖の小島が見える岩場だった。
「西田の爺ちゃんが、あの岩も神様だっていうんだ」
「あー。そういえばしめ縄、替えたもんな」
「あと、日本の神様は、誰に頼っても、何人頼ってもいいんだって」
「それで地元の神様のところに行こうって?」
「まぁ、ご利益でもあればラッキーと思ってさ」
食事までにはまだ一時間ほどの余裕がある。ギリギリに帰宅すると配膳の準備を手伝えないのでばあちゃんには申し訳ないのだが、この時は無性に海に行かなければならない気がしてならなかった。
2人で並んで自転車を漕ぎ始めたが、途中で海人は漕ぐ速度を上げた。自動車の往来もほとんどないドが付く田舎の島。立ち漕ぎで全力疾走してもぶつかるものは風、それからとろい虫ぐらい。
慌てて後ろから着いてくる竜二の自転車は、前かごに入れた本がガタガタと音を立てている。急がなければならないわけではない。でも今は疾く、いいやどちらかと言えば何も考えずに漕ぎ続けていたかった。猛スピードを出す海人の耳を風の音がふさぐ。
目的の岩場の前に着いた頃には息は完全に上がっていた。それでも久々にスッキリとした気分になる。あとから追い付いてきた竜二は途中で諦めたのか、息も切らさずに悠々と自転車から降りたった。
「あれか」
岩場から遥か沖に、高さ5mほどの岩がそびえたっていた。島というには少々小さすぎる、岩というにはいささか大きすぎる、奇岩。夕日を背に、何かの松が一本上に生えているのだけは分かったが、いかんせん逆光でシルエットが黒々としているだけだ。
「もしかして、この島の神様もどこか学校にいるのかな?」
「いねーだろ。そんなに神様が学校に潜り込んでたら、俺たちの周り全部神様じゃねーか。クラスメイト全員が神様でしたーなんて笑えねぇよ」
言いながらも笑う竜二。小学校からこの島で、学校は全てバーチャル空間にあった竜二にとっては、1人でも人間以外の者が混ざり込んでいたというのは大変なことなのだ。
「そうは言うけど竜二、現時点で俺たち神様の同級生になってるわけだけど」
「違いない。ったくなんであいつ、桜城命。何が目的で人間の学校に潜り込んできてんだよ」
「結婚相手を見つけるためだろ?」
「だからそれ、おかしくね?」
竜二は借りてきた子供用の日本神話の本を開く。かろうじてふりがな付きの漢字だった。全部ひらがなだと逆に大変だった。
目次を指でなぞりながら竜二は何かを探していた。
「お前コレ読んだことあるの?」
「ある。ほとんど覚えてないけどな。それこそ小学生の時に読んだ記憶だけあって、内容は覚えてなかったけど。だからこの島の図書館にこの本があるの覚えてたんだ」
別に闇雲に図書室へ行ったわけではなかったことに、あるいはその記憶力に少しだけ感心する。海人はこの手の類の本はほとんど読んだことがない。
「あ、コレ。三輪山伝説」
「これが何かヒントになるって言うのか?」
「今回の桜城命の話を総合するとだよ? あいつは結婚相手を探すためにあの世とこの世の境にできてしまったバーチャル空間に来たってことだよな」
「まぁざっくり言えばな……」
「でも古くからの神婚説話を考えるとおかしい事じゃないかと思うんだ」
「シンコンセツワ?」
「要は神様と人間が結婚する話。三輪山伝説が有名だからちょっと読んでみろよ。脚色されてるしそんなに長くもないから」
そう言われて本を渡される。確かに大きな文字で挿絵入り、それでも数ページ程度という短さ。海人は眉をひそめながらこの子供向けの話に目を通していく。
大ざっぱに言うと、イクタマヨリビメという娘の元に夜中だけ訪れる男がいたと。不審に思った娘の両親が男の着物に麻糸を通させて朝になってからその糸の先を探しに行くと、三輪山の社に続いていた。つまり通っていた人物は三輪山に祭られているオオモノヌシという神様であった、という話。
「コレのどこらへんと今回が違うっていうんだ?」
「神様がもう自分の相手を選んでるだろ? 桜城命はお前か小野さんか、どっちか選んですらいないんだ。しかも男か女かすら選んでもいない。おかしいと思わないか?」
言われればそう、としか海人には答えられないのだが、そもそも神様が婚活に来る時点でおかしいだろうという意見はこの際封じておこうと思った。続けて竜二は熱く語る。
「こういうのを
「オカ研のお前がそういうんなら、そうなんだろうなぁ……」
「しかも男でも女でもいいっておかしすぎるだろ、普通は女って相場が決まってる」
「それは確かに妙だと思う」
パタンと音を立てて本を閉じた。他にもさまざまな話がありすぎて、どこから手を付ければいいのか分からなかったので。それにアマだかアメだか、ヒメだのミコトだのと、同じようなカタカナが並ぶのでどうもパッと見で個人名を判別しづらいのが海人には受け付けなかった。
桜城命の本名もそうだが、どうしてこう日本の神々というのはややこしい名前をしているのかとため息も吐きたくなる。
「大体から、あの名前、なんて言ったっけ」
海人はぶっきらぼうに言い放つ。名前に意味が隠されているとしても、覚えられない名前などこの際意味をなしていない。竜二の方はしっかり覚えていたのか「アメノサクラギノミコト」と即答した。
「よく覚えてたな……」
――アメを名乗るのは
優しい声だった。
「天津神?」
咄嗟に聞き返す。しかしその場にいるのは海人と竜二だけ。
「お前なんか今言った?」
海人は竜二に向かって問うが、彼は自分が何を聞かれたのか、そもそも自分に話しかけられていることに気が付くまでにたっぷり一秒以上かかって眉をひそめる。自分のことを指差しながら首を傾げた。
「いや? 俺何も言ってないけど」
「天津神って」
「は?」
確かに聞こえた。だが女性らしい柔らかな声で、どう考えても日焼けした男子高校生の声ではなかった。
「あの……、誰かいるんですか? 俺たちを助けてくれるの?」
試しに乞うてみる。きっと答えは否やだと思われるのだが、それでも一声何か言ってほしかった。
――私は、
それ以上は潮騒の音だけで、声はふわりと消えた。
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