寒雷と初恋

Prologue

かえでは強いから、正しくありなさい。」


それは祖父の口癖だった。

実家の剣道場で師範を務める祖父は、幼少期から特に強くもなければ才能もない私に事あるごとにそう言っていた。12月の冷たさが床から何も纏わぬ素足に伝わる。

眼前に立ち、剣先を合わせる相手を見た。面をかぶっているからどんな表情をしているのかはいまいち判断がつかなかった。七瀬ななせ先輩はきっと真剣な表情をしていると思う。であるならば私も真剣に取り組まなければ失礼だ。突如頭に現れた祖父の顔を振り払い、集中する。

静寂極まる剣道場に互いが中段に構えた竹刀の切っ先がぶつかり合う音のみが響いていた。実力が拮抗している私と七瀬先輩の間で静かな勝負は続く。私が少し左にずれると、先輩も同じタイミングで動き、正面を取り合う。どちらかと言えば攻めを得意とする私も隙がなく、踏み込めない。時間にすればさほど長くない一足一刀の間合いも、私にとっては非常に長く感じる。それだけの集中力を注いでいた。

先に動いたのは先輩だった。素早く左上段の構えを取り、胴に隙が生まれた。私は染みついた動きで先輩の面打ちをいなすべく竹刀を上にあげる。間一髪で間に合った竹刀は私への面打ちをしっかりと逸らした。

流れる動作で私は胴を狙う。いわゆる面返し胴である。先ほどまで静かだった道場に私と先輩の声が響く。私のはなった打突は先輩の胴をとらえる。それは審判のいない部活終わりの一本勝負においても有効だとわかるほど綺麗な胴打ちだった。

しっかりと残心をとり先輩のほうを見ると、彼女からも有効であると認められたらしいことが分かった。

開始線へと戻って、蹲踞し、納刀する。立ち上がり、そのまま後ろへと下がり一礼した。試合終了だ。



「ふう、楓強いね。」


面を取りながら先輩が言った。私も面を取る。


「そんなことありませんよ。たまたまです、先輩が勝ち越してるじゃないですか。」


「私だって剣道はじめて長いからね。そうそう負けてられないよ。」


慣れた手つきで互いに自分の防具を外していく。


「かえでー、私たち先に帰ってるね。」


道場に顔を出した剣道部員たちが私に声をかける。どこまで人数の多い部活ではないけれど、私たちはそれなりに仲良く部活動に励んでいた。


「わかった、また。」


「うん、またね!先輩も、お疲れ様です。」


「うん、お疲れ様。気を付けてね。」


先輩はそう言った。その時の先輩の顔を見ることはできなかったけれど。


「はい、先輩。」


そう言って私達も片づけを始めた。


時刻は既に18時を回り、太陽は落ちている。暗くなった学校で電気がともっているのは武道場と体育館、教員の控室くらいなものだろう。私も遅くならないうちに帰らなければ。防具を仕舞い、先輩とともに三階の女子更衣室へと向かう。更衣室は剣道場に併設されておらず、普通棟の中に行かなければならない。消灯され、非常口を示す緑色の電気が不気味に光る夜の校舎も、二人だと心細くはなかった。


「寒いね。」


「そうですね。もう冬です。」


「毎年思うけど、冬にはもうちょっと手加減してほしいよね。うら若きJKをこんな厳しい環境にさらさなくてもいいのに。」


「自分でうら若きJKって言っちゃだめですよ。」


鍵を使って開錠し更衣室に入る。この学校はセキュリティには気を使っているようで、男女の更衣室にはそれぞれ鍵が付けられている。希望生徒のみに与えられるその鍵でしか男女それぞれの更衣室は開かないらしい。紛失した際は学校を上げての大捜索になるらしく、厳重に取り扱うように言われていた。

ロッカー脇の椅子に誰かの忘れ物と思われる紙袋があった。それを特に気に留めることもなく百円均一点で購入した3ケタのダイヤル式の南京錠を外してロッカーを開き、私は剣道着と袴を脱いでゆく。

暖房のない更衣室は冬の寒さに満ちていたため、手早く制服に着替えるためにロッカーの中から制服を手に取る。とはいっても防寒性能に乏しいセーラー服のスカートでは、体が温まることはないのがもどかしかった。

私のロッカーと先輩のロッカーは向かい合わせの位置にある、先輩がシリンダー式の南京錠を鍵を使って開ける音が聞こえた。お互いに背中合わせの無言で着替えていたが、制服を着ようとした私に先輩が声をかけてきた。


「楓。少し、話があるんだけど。」


「はい?」


振り返ると、真剣なまなざしの、下着姿の先輩がいた。貞操の危機を感じた。

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