ある少女のepilogue

 5年後 某日

 雨の降る日のことだった。


「雫さん、ちょっとレジ入ってもらってもいい?」


「はい。今行きます。」


 アルバイト先のコーヒーショップで洗い場の私に声がかかった。水を止めて、ペーパータオルで手を拭いてレジへと向かう。

 高校一年生の6月に両親の転勤に付き合う形で留学した私は大学進学のために帰国し、地元で一人暮らしをしていた。あちらの国での暮らしが苦痛だったわけではないけれど、やっぱり日本のほうが肌に合う。アメリカにいる両親は私が困らない程度の額の仕送りを毎月送ってくれているけれど、甘えてばかりもいられないので週に二回程度アルバイトをしていた。

 レジに入り、注文を聞きながら期間限定のメニューを勧める。売り上げが上がることで私に得があるわけではないけれど、損をするというわけでもない。

 初対面のお客さんと話しながら、言葉を発することを毛嫌いしていた昔の私を思い出し、同時に一人の人間を思い出した。

追いかけて追いかけて、やっと追いついたのに別れも告げず、連絡先の一つも聞くことなく離れてしまった男の子。同じ中学校を卒業し、実験でペアになり、一緒にチェスをしただけの男の子。きっと彼は私のことなんて忘れてしまっただろう。

 あの日君が言ってくれた言葉で、私は人と話すようになった。不自由でも不便でも、君が綺麗だと言ってくれたから。君は今、どこで何をしているだろうか。家の場所は知っていたから、訪ねようと思えばいくらでもそうすることはできた。

 けれど臆病な私はそうすることができなかった。ちょっとチェスをしただけの相手が数年たって訪ねてきたら気持ち悪いだろう。私だったら気持ち悪いと感じる。

 いや、きっと違う。私は単に、自分が忘れられていることを確認するのが怖いのだ。臆病で卑怯な私は、その事実から目を逸らすために、確認をしていないだけだ。少しの思い出を未練がましくいつまでも覚えている自分なんて、帰国するときに置いてこれればよかったのに。


 午後3時前の繁忙をさばきながら、一人ネガティブになってしまった。集中しなければと前を向いて次のお客様に声をかける。

 けれど、私の口から言葉が発せられることはなかった。マニュアル通りの接客文句を口にできなかった自分をこの時ばかりは責められない。

 だってそうだろう、今でも忘れられない初恋の相手が眼前に現れて、驚かないなんてできるはずがない。


「--コーヒーとそこのサンドウィッチ一つください。」


 我に返って私は首を縦に振る。注文をすべて聞き取れなかったため、どのコーヒーを出せばよいのかわからなかった。季節感と今日の気温を考えてアイスコーヒーを抽出する。温めたサンドウィッチとともにトレーに乗せて彼に渡す。


「ありがとうございます。」


 そう言った彼は荷物を置いた席へと戻っていく。

 やっぱり、私のことなんて忘れてしまっていたみたいだ。それが悲しくて泣きそうになったけれど、何とか涙をこらえる。仕方がない、もう何年もあっていないのだから。私は作業に戻る。何かしていれば気を紛らわせることができるはずだ。


 しばらくして、彼はもう一度レジへとやってきた。注文からはさほど時間がたっていないので追加注文というわけではなさそうだ。もしかして、私のことを思い出してくれたりしたのだろうか。


「すみません、細かいことを言うんですけれど、このコーヒーって普通のアイスコーヒーですか?」


 私は頷く。どうやら違ったらしい。


「僕が注文したのは水出しアイスコーヒーだったので気になってしまって。レシートは捨ててしまったんですが、差額をいただいたりってできますか?」


 お店のマニュアルでは、レシートがない場合の返金措置はできないようになっていた。だけど私は名案を思い付いた。

 忘れてしまっているのならもう一度出会えばいい。たとえスタートからのやり直しだとしても、もう一度話をしてみたい。


「いえ、新しいものをお持ちしますよ。席でお待ちください。」


 私がそう言うと、彼は少しだけ驚いていた。


「えーと、そこまでしていただかなくてもいいですよ。」


「いいえ、こちらのミスですので。」


 彼は渋々承諾して席に戻っていった。私は紙ナプキンに自分の電話番号を書いた。

 そうして一言、

『もうそろそろシフトが終わるのでよかったら連絡ください。』

 と書いた。いつかのチェス盤はもうない。けど、臆病な私とはこれでさよならだ。

 水出しアイスコーヒーと紙ナプキンを持って彼の席へと向かった。

 机の上には教科書が開かれている。相変わらず賢いのだろう。


「お待たせしました。」


 そう言うと、彼は私のほうをまっすぐに見た。そんなに見つめられると照れてしまいそうだ。顔が紅潮していないか少しだけ心配になる。


「...ありがとう。」


 彼は私にお礼を言った。私はそそくさとその場を立ち去った。

 連絡があることを願いながら。



 _____________________




「お疲れさまでした、お先に失礼します。」


 お疲れ様、という先輩店員の声が聞こえた。私は携帯の着信を確認する。

 着信履歴には何も書いていない。彼は私の退勤と同じくらいのタイミングでお店を出たので、着信がないということはそう言うことだろう。

 ため息を吐いた。でも、これであきらめがついた。最後の手段がダメだったならもう前に進むしかない。

 裏口を空けて傘をさす。天気模様は私の心の中同様に雨模様だ。


「はあ、やけ酒でもしようかな。」


 裏口から一歩踏み出す。












「やけ酒か、付き合うぞ。」


 声が聞こえた。彼の声が。

 私は声のほうを見る。そこには傘を差した圭介君がいた。


「確認だけど、雨森でいいんだよな?」


 私は頷く。

 それを見て彼は笑う。


「相変わらずだな。その頷きはやっぱり雨森だ。」


「私の顔なんて忘れてると思ってた。」


「実際忘れていたし、僕も雨森は僕のことなんて忘れてると思ってた。

 僕は他人の顔を覚えるのは苦手なんだ。」


「じゃあ、なんでわかったの?」


 彼は私から目を逸らさずに行った。あの日と同じ言葉を私に。


「僕は雨森の声が好きなんだ。君の声は綺麗だから。」


「え?」


「顔も筆跡も覚えていなかった。でも、覚えてるものもあった。やっぱり、雨森の声は綺麗だよ、だから忘れずにずっと覚えてた。」


 私は笑う。それで負けじと私も言う。


「私は圭介君のこと、忘れたことなんてなかったよ。」


「僕ってそんなに特徴的か?」


「違うよ、でも忘れなかった。だって私は、」


 あなたのことが今でも好きだから。


 そんなことは言えなかった。臆病な自分に嫌気がさした。

 でも大丈夫、いつか言えるようになればいい。

 きっとこれからいくらでもチャンスはある。

 君の好きな私の声で、あなたに好きと告げるまで。

 私はあなたと一緒にいたい。









おわり


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