彼女と彼
次の金曜日、私は午前の授業を終えて喫茶店へと足を運んだ。本格的に始まった秋学期の授業は夏休み気分では乗り越えることができず、その疲れもあって、あの奇怪な成績評価を行う授業の講義室には足を運ぶことはなかった。本当に単位が出るのかという一抹の少不安を抱えながらも、置き忘れた栞の所在を確認しに来たのだ。
からんからん
扉を開けたことによって鳴り響いた入店音は聞きなれたものだったが、喫茶店のカウンター席には見慣れない人物がいた。
「なんでいるんですか?」
「辛辣だなあ。コーヒーを飲みに来たんだよ。お嬢さん。」
コーヒーカップを傾けながら後藤さんが言った。
「そうだよ夏樹君の娘さん。」
「やけに他人行儀な呼び方ですね。いつも通り名前で呼んでくれていいのですけれど。」
「うーん、俺としてはそうしたいんだけど。この自称お友達くんに個人情報を漏らすわけにもいかないからさ。」
「なるほど。ご配慮ありがとうございます。」
そういって私がいつもの窓際のテーブル席に座ると、自称お友達こと後藤さんが対面に座ってきた。
「どうして。」
「ここのコーヒーが美味しいからもう一度来たのは間違いないけれど、できることなら君とお話ししたいなと思って。」
そう言って彼はテーブルに頬杖をついてこちらを見つめた。そのまっすぐな目は本当に私のことしか見ておらず、窓の外の景色には一切の興味を示していなかった。
「私は別にお話ししたくはないですが。」
「まあ、そんなこと言わずにさ。」
そう言って彼は鞄から栞を取り出した。それは紛れもなく私のものであり、なぜ彼が持っているのか不思議になった。だがそれは考えてみれば当然のことで、私がいなくなった後のテーブルに置いてあったそれを彼が回収したのだろうということは想像に難くなかった。よって私は手を彼の前に差し出した。
すると彼はごく当たり前のような流れで私の手を握った。驚いた私はすぐさまその手を引っ込めた。
「何するんですか。」
「え、違った?」
とぼけているのか本気なのかわからないような真面目な顔で彼は依然として私のことをまっすぐに見つめている。
「違いますよ。どう勘違いしたら私が手を握ってほしいって風になるんですか。」
「差し伸べられた手は振り払わない、俺自身も届く範囲で手を差し伸べるってのが俺のモットーなんだよ。」
「へえ、それは御大層なことですね。でもこれは栞を返してくださいって意味です。」
「ああ、そういうことね。」
そう言って彼はニヤッと笑った。しかし栞を返すような素振りはない。
「返してください。」
「そんな強盗みたいに扱わないでよ。俺は君にこれを返すつもりはあるんだ。でもタダで返すのも性に合わないからね、君が返してほしいっていうなら今日これから俺とのおしゃべりに付き合ってもらうよ。」
「そんな栞はいらないって言ったらどうするんですか?」
「その時はこの栞を返して俺はカウンター席に戻るよ。」
交換条件として成立していないような気がして首を傾げた。不思議そうな顔で彼を見つめていると、突然彼は笑いだす。
「そんな不思議そうな顔しないでよ。もともと返すつもりだったんだから返すのは当たり前でしょ?それとも本当にこの栞はいらないの?代わりに捨ててほしいっていうなら捨てとくけど。」
「いえ、気に入っているので返してほしいです。」
「本当に?」
「ええ、本当です。」
「じゃあお喋りしようか。いらないって言わないならタダで返す義理はないからね。俺の名前は後藤悟。近所に住んでる大学三年生だ。君には是非、悟と呼んでほしい。」
こうして後藤さんは聞いてもいないし許可してもいないのに自己紹介を始めた。半ば強制的に眼前の男としゃべることになった私はため息を吐きながらも、別に暇だからいいかという気持ちになっていた。それをみて後藤さんは私に言った。
「ため息を吐いてると幸せが逃げるよ?」
「逃したからこんなことになっているのかもしれませんね、後藤さん。」
「悟って呼んでいいって。あと、さらっと俺との出会いを不幸呼ばわりしないで。」
本当に悲しそうな顔をしている後藤さんをみて私はクスリと笑った。それを見た彼は私に笑ってもらえてうれしかったのか照れ笑いをしていた。
こうして私と後藤さんの、私と悟の付き合いが始まったのだ。毎週金曜日の午後決まってこの場所に現れては私と会話をする。初めは警戒心からか口から出ていた敬語も十月の半ばになるころにはため口へと変わっていて、オセロでの勝負に負けたことによって私は彼のことを悟と呼ぶことにしていた。それでもいまだに名前は教えていなかった。なぜかと聞かれれば理由はなく、最初のころ意地でも教えてたまるものかと思っていた名残で教えるタイミングを見失ったというのが正しいだろうか。私のことをいまだに『お嬢さん』であるとか『お姉さん』と悟は呼んでおり、それは少し気恥しいものではあったが同時に少しだけ嬉しくもあった。
十月も終わりに差し掛かり、残暑が鳴りをひそめて木の葉が色好き始めた金曜日のことだった。その日は朝から曇天で、予報では降水確率が50%という風なことを言っていたため父と二人で家から出るときに折り畳み傘が鞄に入っているか確認した。
私は悟が待つであろう喫茶店へと足を運んでいた。窓から店内をのぞき込むと、いつもなら私よりも先にいるはずの悟の姿は喫茶店にはなかった。金曜日だけは鞄に読書用の文庫本を入れることをやめていたので、悟が来るまで暇になってしまう。そんなことを思いながら私は喫茶店の扉をくぐった。
「いらっしゃい秋葉ちゃん。」
店内にはマスターと内藤さんがいた。内藤さんも小さな会釈を私に返してくれた。
「どうも、久々に名前で呼ばれた気がします。」
「そうだね、最近はいつも悟君がいるからね。」
「そうですね。今日は悟は来てないんですか。」
「昨日来た時に『明日は少し予定があるからこれるかわからない』って伝言を預かっているよ。飲み物は何にする?」
「そうなんですか、わざわざ伝言なんて律儀な人ですね。カプチーノをお願いします。」
そういうとマスターが私を見て笑った。何がおかしいのだろうか。
「かしこまりました。秋葉ちゃんのそんな顔が見れるなんてね。」
「そんな顔っていいますと?」
カプチーノを作るべく準備しているマスターに尋ねると、作業を止めることもなくマスターが私に言った。
「いや、秋葉ちゃん彼が来ないってわかったとたんすごく残念そうな顔をしてたよ?仲良きことは美しきかなだね。」
「からかわないでくださいよ。そんな顔してません。」
「案外、自分が今どんな顔してるのかなんて自分じゃわからないものだからね。実は俺が言ってることが正しいのかもよ?これは夏樹君に報告しなくちゃね。」
そんなまさか、と私は思った。まだ数回あっただけの悟がここに来ないだけで残念なんてことはない。自分にそう言い聞かせ、いつもの席に腰かけて携帯電話を見ていると内藤さんがカプチーノを持ってきてくれた。私が会釈すると彼もそれに応じるように会釈を返した。
カプチーノに口をつけると、口の周りに泡がついてしまった。私は取り出したハンカチでそれをぬぐう。文庫本を忘れてしまったため暇になってしまった。いつもならこんな時は外を眺めたり店内を見渡したりして時間をつぶしているのだが、対面に人がいないという寂しさを私はなぜか感じていた。そんな気持ちを振り払うべくもう一口カプチーノを飲みマスターに話しかけた。
「マスターはどうして私の名前を彼に教えてないんですか?」
「それはこの前言ったとおりだよ。若い女性の名前をどこの誰とも知らない人に教えたりしないよ俺は。」
「でも常連さんが私の名前を知ってたりしますよね?ほんとは別に理由があるんじゃないですか?」
実際のところ、常連の近所のおじさんやおばさんなどは私の名前を教えたわけでもないので知っているため入店すると挨拶を交わしたりする。もしかしたらこの店を訪れた父の口から話したのかもしれないが、社交性に乏しい私の父が見知らぬ人と会話をしているというのは考えにくかった。この喫茶店のカウンター席に通されるのはマスターに気に入られた人だけだ、つまり悟はマスターに気に入られていることになるので知っていてもおかしくはない。さらに言えば、そこまで個人情報に気を使っている人は挨拶の際に名前を読んだりしないような気もした。
「意外と頭が回るんだね。いや、夏樹君の娘さんなんだから当然か。」
「ということはほかに理由があるんですか?」
「そうだよ。本当は悟君に敬意を払うつもりでこのことを秋葉ちゃんに教えるつもりはなかったんだけど、秋葉ちゃんの勘の良さにも敬意を払って教えてあげるよ。
実はね、秋葉ちゃんのことを教えてあげようと思ったんだけど彼が『名前くらいは本人の口から聞き出さないとかっこ悪い』って断られちゃってね。いい男だよ彼は、秋葉ちゃんに対して誠実だし真摯だ。」
それを聞いて驚きもしたが、同時に私は納得もした。いつも喋っている彼のイメージにぴったりだったからだ。
「そうだったんですね。でも私初めて会った時以外名前聞かれてないんですけど。」
「意外と初心なんだよ、ああみえて。いや、意外でもないか。」
それを聞きながら私はカプチーノを飲んだ。少し冷めてしまったそれは今の季節に丁度いい温度に変わっていたが、また口元に泡が付いた。
それからカプチーノがなくなるまでの間マスターと雑談をした、内容は父の話だった。マスターが最近受けた健康診断であまりよくない結果、とはいっても命に別条がない程度の結果が出たらしく父が大丈夫か心配になったらしい。父はやせ型で生活習慣にも気を使っているため何か悪い結果が出るようなことはきっとないだろう。ただ、煙草を吸うのできっと肺は真っ黒なのではないだろうか。やっぱり禁煙を勧めるべきかもしれない。喫茶店の近くには大きな病院があるのでそこで肺のレントゲンでも取ってその写真を突き出し、なおかつ私が『お願い』すればきっとやめてくれるだろう。そんな作戦を立てていると窓の外に悟の姿が映った。
彼はそのまま入店して来た。
「こんにちはマスター。あ、お嬢さんもいる。」
「なんで私がついでみたいになってるのよ悟。」
「あれ、案外寂しがってくれたり?」
「そんなわけないでしょ。」
そういって私はそっぽを向いた。そんな私をみて再びマスターが笑い、私はそれをにらんだ。
「うわあ、おっかない目で見ないでよ。悟君、飲み物何にする?」
「じゃあブレンド一つで。」
流れるように言った彼はさも自然に私の前に座った。いままでそこにあったはずの空白が埋まった気がした。きっと私は彼がいなくて寂しかったし残念だったのだとようやく認める気になって彼に言った。
「ねえ、私の名前教えてほしい?」
それを聞いた彼が少しだけびっくりして、答えた。
「そうだね、そろそろ『お嬢さん』呼びにも飽きてきたところだし。」
それを聞いて私は自己紹介をしようと口を開いた。しかし私が声をかけるよりも前に彼の声が聞こえた。
「ってことで、コーヒーを飲み終えるまでに雨が降ったら、俺に名前を教えてくれないかお嬢さん。俺はあんたの名前が知りたい」
そう言って彼はマスターに私の分のコーヒーを注文した。
意味が分からなかった。どうしてこっちが教えようとしてるのにそんな運に身を任せるようなことをするのだろうか。
「別にそんなことしなくても教えてあげるわよ。」
「いや、いいんだ。どうせ今日は雨だから結果は一緒だよ。教えてくれるというのならそのコーヒーをゆっくり飲んで、雨が降るまで俺と話でもしてくれたらいい。」
「降水確率的には五分五分の勝負だと思うけれど。」
「いいや、降るさ。俺がそう思っているからね。」
「そこまで言うなら別にいいけど。降らなかったら教えてあげないわよ?」
その問いへの返事だとでもいうように彼は笑って見せた。私はできるだけゆっくりと、とてもゆっくりとコーヒーを飲もうと思った。
それからはいつものように話をした。お互いの好きなものであるとか、嫌いなものであるとか、実は悟が煙草を吸うことであるとか、私と悟の通っている大学が同じであるとか、そんな話だった。しかし、どれだけ話せど雨は降りださなかった。三時間が経とうかというところでついに私のコーヒーは残り一口を残すのみとなった。
「ずいぶんとゆっくり飲むんだね。」
悟はそう言った。
「ええ、私も丁度『お嬢さん』って呼ばれ飽きてたとこだったから。」
「素直じゃないね。」
「ええ、意外でしょう?でもそろそろタイムアップよ。もうこのコーヒーのこり一口分しか残っていないもの。あんなに自信ありげに宣言しておいて負ける気分はどう?」
それを聞いた彼は笑って窓の外を見た。そして一言だけ口にした。
「降るよ。」
そういった彼の視線の先を私も見つめる。するとどうだろうか、窓に水滴がつき始めた。私が呆然としていると悟が私に声をかける。
「言っただろう?降るって。じゃあ、名前を教えていただいても?」
そんな彼を見つめる。彼は特に勝ち誇るでもなく、私をただ見つめていた。
「そうね、負けた以上は名乗らないと。
私の名前は
「そう、じゃあ秋葉ちゃん。いや、秋ちゃん。改めてよろしくね。」
そう言って彼はポケットから取り出したセブンスターにジッポライターで火をつけた。
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