彼女と父親 

「え?今度は何がいけなかったの?」


「いや、ですからおよそすべてですよ。」


 私の前に座る男は目に見えて悲しい顔をしていた。そんなに落ち込まれるとこっちが悪いことをしているような気分になるのでやめてほしい。


「あれ、お友達?」


 一服休憩から帰ってきたマスターが私に尋ねた。


「そう見えます?」


「見えないことはないけど、違うの?」


 違います、そう言って否定しようとしたが私の前に座る後藤さんは話に割り込んできた。


「友達ですよ。さっき出会ったばかりですけれど。」


「それは私の友達の定義からは些かずれます。友達じゃありません。」


「ふむ、一方は友達だと言い、もう一方は友達ではないと言い張る。悲しいこともあったものだね。そんなんじゃ友達減っちゃうよ?」


「減りませんよ。」


 もともといないので、とは付け足さなかった。

 小中高大と学生生活を送ってきて友達といえるであろう人間は少なからずいたが今ではもう会うこともない。幾度かあった転校で友人と会えなくなるという経験が私が友人を作らなくなった要因ではあるのだが、男手一つで私を必死に育ててくれた父親に対してその非を押し付けるのは余りにも酷だろう。自分自身が社交性に富んでいないことはわかっている。もともと友人をあまり作らない人間がちょうどいい理由を見つけたというのが実際のところだ。


「うーん、とりあえず聞くんだけど君はだれなの?」


 マスターの問いかけに対して意気揚々と自己紹介を始めようとしている後藤さんを見て少しだけ意地悪をしたくなった私は後藤さんに代わってその質問に答えた。


「この人は後藤悟さんです。先ほど突然私の目の前に現れて私の今日のコーヒー代を持ってくれると宣言した善意の人です。ということで私はこれにて失礼しますね。また来ます。」


 そう言って私はまだ少しだけ残っていたアイスコーヒーを飲み干して席を立ち、退店するべく入口へ向かう。


「待って俺も一緒に行くから。」


 そう言って後藤さんは席を立とうとするが、それを制したのはマスターだった。この喫茶店は基本的に客に対して口出しはしないし、要望にもできる限り答えるというある種の無法地帯ではあったが、それでもいくつかだけルールがある。


「待ちな後藤さん。うちの喫茶店は飲み物の注文を受けていない人間を返さないってルールがあるんだ。さあ、注文をどうぞ?」


「知りませんよそんなルール。お代はここに置いときますから。」


「ご注文は?」


 そんなことは知ったことではないという風な後藤さんをマスターが凄んだ。それに気圧されたのか、後藤さんは席へと座りなおし、注文を口にした。


「えっと、じゃあブレンドコーヒーを、、、」


「かしこまった、優雅な午後を。」


 そう言ってドリップの準備を進めるマスターを後ろに残して私は扉をくぐる。外に出た私を窓越しに後藤さんは見て口を動かした。その口が『またね』と言っていたような気がしたが、もう会うこともないだろう。


 家に帰るといつも通りに愛猫のキリマンジャロが出迎えてくれた。星型の斑を持つこの三毛猫は私が小学校の頃に飼い始めた猫で、父と私は溺愛していた。命名権をめぐって幼い私と父親が喧嘩をし、最終的にじゃんけんで勝った父親が好きなコーヒー豆の産地の名前を付けたという小話があるのだが、結局私も父も長すぎる名前に辟易し『キリ君』と呼んでいる。


「ただいまキリ君。さみしかった?」


「にゃ」


 そういってそっけなく玄関を出ていってしまった。これもいつものことで、出迎えだけが私の仕事だと言わんばかりに『ただいま』に対して返事をするように鳴き声をあげ、その後は自由気ままに家の中を闊歩する。たまに物を壊して私も父も怒るのだが、その時だけしおらしい姿を見せ、私たちがそれを許すとまた家じゅうをお散歩し始める。なぜこんなに落ち着きのない子に育ってしまったのか疑問であるが。疲れた様子で私の膝の上で眠り始めるキリ君を見ると全く持ってどうでもよくなってしまう。

 リビングへと入った私は荷物もそのままにソファに座り込んだ。残暑が厳しかったこともあり外にいるだけで疲れてしまう。日が傾いてもう少し涼しくなってから帰ればよかったのだが、よくわからない男に出会ってしまったがためにそうすることはできなかった。

 後藤悟。突如として目の前に現れたその男はすごくストレートに私に好意を示してきた。回りくどい駆け引きなどを仕掛け、からめ手で私に言い寄ってくるよりはよほど好感が持てたが、それはそれである。存外自分に対して好意の言葉を向けられるというのは悪い気分ではなかった。一目ぼれと言っていたが外見が理由だろうか、だとしたら少しだけ残念だ。もう会うこともないであろう人間に対してとりとめのないことを考えていた。

 そこで不意に、先ほど読んでいた文庫本が読み途中であったことを思い出して鞄からそれを取り出した。どこまで読んだだろうかと栞を探してみるがその姿はどこにもなかった。どうやら喫茶店に置いて来てしまったらしい。愛用だっただけに少し悲しい気持ちになったが別のものがないわけではないので特に問題はない。次に喫茶店に行った際に忘れ物で保管されていないか確認してみればいい。そう思い文庫本を開くがどこまで読んだのかは忘れてしまった。つくづく読書というものに向いていないなあと思いながら一度読んだであろうページから読み始めることにした。

 それから小一時間が経ち、部屋の散歩に飽きたのかリビングテーブルの上に丸まっていたキリ君がゆっくりと動き出した。そそくさと玄関のほうに向かいまた座る。するとドアが開いて父親が現れた。


「ただいまキリ君、あと秋葉もいるのか。今日は早いんだな、ただいま秋葉。」


「にゃ」


 キリ君がいつもどおりに返事をした。私もそれに続く。


「私がついでみたいになってるのはどうかと思うけど、おかえりお父さん」


「にゃお」


 そういってキリ君は再びリビングに戻ってきて私の膝の上に乗ってきた。


「秋葉がキリ君に嫉妬するから拗ねるなって言いたいんだよ。」


「別に拗ねてないもん。」


 私は読んでいた本を閉じてキリ君を撫でるが、中断したページを確認していないことを思い出してため息を吐いた。

 それを聞いた父が冗談を口にする。


「なんだ?失恋か?」


「違う、喫茶店に栞忘れちゃったの。」


「あーあのお気に入りの奴か。あそこの店主なら保管しといてくれてるだろうから次に行った時にでも受け取っとくよ。」


 そういいながら父はネクタイを緩めた。


「そうだね、でもちょっと古いからなあ。捨てられないことを祈るしかないね。」


 父はそれを聞きながら自室へと戻り、鞄やジャケットなどを片付けていた。部屋から出てきた父はワイシャツにスラックスという格好だった。


「今日は仕事終わったんでしょう?料理するときに汚れちゃったら困るんだし部屋着に着替えればいいのに。」


 我が家の夕食は当番制である。基本的には私がと父が交互に作ることになっている。この制度を始めた高校生の頃、私は準備や調理、後片付けに手間取っていたが最近では慣れたもので翌日のお弁当用のおかずのことまで考えた家計にやさしい夕食を作ることができるようになっていた。親バカかもしれないが父も絶賛してくれるので、最近では夕食を作ることが楽しいと思うようになっていた。

 それに対して父の料理は一向に上達の気配を見せておらず、どちらかといえば美味しいという評価が一番正確であろうご飯を作っていた。こう聞くと私がそれを好んでいないかのように聞こえるがそんなことはなく、ある種の家庭の味としてそれを認め、楽しみにしていた。


「今日夕飯当番だったこと忘れてて買い物忘れちゃったんだよ。だからどこかに食べに行こうか。」


「わかった、何食べるの?」


「そうだな、秋葉は何が食べたい?」


「蟹とそうめん以外なら何でもって感じかな。」


「じゃあ蟹にしよう。」


「話聞いてた?」


「聞いてたよ、でも蟹って美味しいじゃないか。聞いたら食べたくなっちゃったんだよ。」


「言わなきゃよかった。まあいいけど。でもいいの?そんなに豪華なご飯にしちゃって、何でもない日なのに。」


「それは考え方が逆だよ。何でもない日に美味しいものを食べて特別な日にするんだ。いつだって特別を作るのは僕たち自身だからね。それじゃあ善は急げってことで行こうか。あ、でもちょっと待って、」


「どうかしたの?」


「ごめん、一本吸ってからにしよう。」


 そう言って父はベランダへと出て煙草に火をつけた。

 父の喫煙は私が高校生になってから始まった。私が生まれる前はヘビースモーカーだったらしく、ずっと我慢していたらしい。吸い始めこそ体を気遣ってやめて欲しいと思っていたが、幸せそうに煙草を吸う父の姿を見ていてそんな気は失せた。きっと私が大きくなるまで必死に我慢していたのだろう。ならばまあ、子離れ親離れの一環としてそれくらいの嗜みは許してあげたかった。

 膝の上にいるキリ君を撫でながら父の煙草を吸う姿を見ていた。できれば長生きしてほしいなと思っていると、私もそう思うとでもいうようにキリ君が鳴いた。



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