彼女と出会い 

 数年前、9月某日


 大学三年の秋学期が始まった。一年目こそ戸惑いながら行っていた履修登録もこうも何回も繰り返せば慣れたもので、どの授業が楽であるとか、どの授業の課題が厳しいであるとかの情報は嫌でも耳に入ってきていた。

 入学当初は持っていたはずの自由に学ぶことができる喜びも同時に失われていたが、人生のモラトリアムが刻一刻と終わりに向かっていることへの不安、言い換えれば目前に迫った就職活動への不安は大きくなっていた。周囲の人間はすでに動き出している、などという大学受験の際にも聞いたような嘘か本当かわからないような情報が焦りを加速させていた。そうはいっても何か動き出すわけではないという冷静さが自分の長所なのか短所なのかは甚だ疑問だが、自己アピールになるなら何でもよいというのが就活生の悲痛な叫びだろう。大学の講義室に入りながら、寝てても給料が入る仕事はないだろうかと考えていた。

 大学の講義において席取りというのは非常に重要である。前方の席は授業を聞く上で邪魔が入らないが、目立つうえによそ見ができない。後方の席は授業を受ける環境としては劣悪と言わざるを得ない。自身の意思にかかわらず周囲にやる気のない人間が集まるからだ。しかし、中央の座席は友達同士で授業を受ける人間が集まるため一人で授業を受ける私にとって適切とは言い難い。

 よって、私はいつも可も不可もない位置である前方よりの座席、具体的にいえば前から4列目の一番左端の席で授業を受けることにしていた。そのためには少しだけ早く講義室に入らなければならないが、まあそのくらいは許容事項だろう。

 席についた私は一限目の授業の復習をするべくノートを開いていた。正直なことを言ってしまえば復習するほどの内容ではなかったのだが、暇を持て余している側の人間としてノートを眺めているのである。

 そんなことをして15分ほど待っていると教室がにぎわいを見せ始めた。初回の授業だけあって出席率は高く教室一杯に学生があふれていた。夏休み明けであるからか肌が焼けている学生や初々しいカップルのような学生もいた。私の夏休みはというと、特に何をするでもなく猫と戯れ、お気に入りの喫茶店でコーヒーを飲み、本を読んだりして過ごしていた。味気ない夏休みだという人もいるかもしれないが、自分自身としては満足していた。


「はい、それでは講義を始めます。」


 教授とおもわれる男性の声が講義室に響いた。騒がしかった講義室は水を打ったように静かになり、一斉にみなが前を向いた。中にはその限りでない学生もいたが、耳だけは傾けているのだろう。


「この授業は皆さんが三回生から四回生に上がるために必要不可欠な科目の一つです。つまり逆に言えば、この授業の単位を落とすと四回生には上がることができませんので注意してください。」


 履修登録を行う上で誰もが知っている事実を教授は口にした。この授業は必修科目といわれる科目であり、この単位がなければ留年することになる。実際のところはこの科目の単位を持っていないと四年生でとらなければならない卒業研究に参加することができないだけなので、厳密にいえば四年生にはなること自体はできるのだが同じことだろう。


「ですが朗報です。この授業はとても楽です。私が今年度から授業の担当をすることになったのですが、私は無駄なことが嫌いです。なので、テストが終わって二週間後には授業の内容を忘れているであろう鳥頭の皆さんに私という人間の貴重なリソースを割きたくありません。」


 突如として罵倒された講義室内の学生はざわめいていた。鳥頭といわれ憤慨する気持ちはわからないではないが、大多数の学生は今教授が言った通りの人間なので仕方がないともいえる。教授はそんな私たちを見て話をつづけた。


「静粛に。何が言いたいかをあなたたちにもわかるように簡潔に説明します。この授業の単位認定は出席点によって行います。出席の確認を行うのは計二回。今日、そして最後の授業です。つまり、皆さんは今から行う呼名で返事をし、最後の授業でもう一度それを行えば単位を認定します。よろしいですか?」


 講義室にいる学生はみな一瞬困惑した。しかし、楽に単位をとることができることへの喜びからかすぐにざわつき始めた。


「わかったようで何よりですそれでは呼名を始めますので、返事をお願いします。呼名が終わり次第退出していただいて結構です。」


 そういって、教授は学生の名前を呼び始めた。ほどなくして私の名前も呼ばれたため、返事をして教室を出ていった。

 今日は金曜日なので明日は休みだ。この足でどこかへお酒でも飲みに行こうかと思ったが、時刻は正午を回ってすぐだった。今の時間から飲み始めるのはさすがに抵抗があったので、私はなじみの喫茶店へと足を運び本でも読むことにした。


 ________________


 大学の近く、近いと言っても数駅跨いだ場所にある喫茶店はコーヒーとモーニングのサンドイッチが美味しいと評判のお店だった。父が教えてくれたその場所は父が学生の頃からそこにあるらしく年季が入った見た目をしていた。初入店の時こそ入りづらい雰囲気を醸し出していたが入店してしまえば行きつけになること間違いなしのお店だった。店名が『喫茶店』であることから人と話すときには紛らわしいが、行きつけの喫茶店の話をするような友人はいないため特に困ることはなかった。強いて欠点らしき点を言うとすれば、煙草の臭いが少しきつい。しかしそれも、父親の煙草の臭いをかいでいる私からすれば全く問題ない程度である。

 扉を開くとからんからんという音が店内に響いた。


「お、夏樹君のところの嬢ちゃんじゃないか、いらっしゃい。」


 マスターが声をかけてきた。わたしもそっと会釈をして窓際のテーブル席をとった。定位置となりつつあるその席は、そとの様子を眺めるには絶好の席で、ここに通うようになってからは空いていればその席に案内してもらうようにしていた。


「嬢ちゃんなんて言われるような年齢ではないですよ。もう成人もしてますし。」


「そうはいっても夏樹君から君の話をよくされていたからね。俺からすれば娘みたいなものなんだよ。いつまでたっても君は子供だよ。注文は何にする?」


 夏樹というのは私の父の名前だった。私が高校に入ってからは過保護気味の親心も息をひそめたらしく、家を空けることも多くなっていた私の父は最近の休みの日にはこの喫茶店に再び足を運ぶようになっていた。


「まだ残暑も厳しいのでアイスコーヒーをください。ミルクと砂糖はいらないです。」


「はいよ、すぐ持ってくから待っててくれ。」


 そういうとマスターはグラスを取り出しそこに氷を入れ始めた。

 十月も近づいているというのに季節は廻らず、いまだに三十度近い気温の日が続いていた。先日あった大型連休でも熱中症で病院に運ばれる人が多かったとニュース番組が伝えていた。

 私は鞄から文庫本を一冊取り出し、読みかけだったそれを開いた。愛用のしおりをテーブルにおいて文字を追い始めた。本を読むスピードはあまり早くはなかったが、それでも非現実の世界を体験することができる本という存在は好きだった。

ほどなくして、店員が私のもとにアイスコーヒーを運んできた。それはいつものマスターではなく新人と思われる店員さんだった。私は簡単にお礼を口にしてストローを包装紙から取り出してグラスに落とした。


「その子新人の子なんだ、厳しくしてやってくれ。別の場所で同じ名前の喫茶店をやってるらしいんだけど、俺のサンドイッチの味を教えてほしいらしくてさ。たまに働いてもらうことにしたんだ。」


 冗談交じりにマスターが笑いながら言った。


「そうなんですか、頑張ってくださいね。ここのお店、忙しそうにしてる時があるから。」


「忙しそうなんじゃなくて忙しいんだよ秋葉ちゃん。」


「マスターが一服しながら休憩してるからじゃないですか?」


「俺の喫茶店で俺が煙草を吸えなかったらせっかくお店開いた意味がないでしょ。」


 本気なのか冗談なのかわからないが喫煙は本人の自由だからまあいいだろう。煙草を吸わない私にとってはよくわからないが。


「店員さんはお名前なんて言うんですか?」


 新人店員さんは私の問いかけに対して胸元のネームプレートを見せてきたそこには手書きで『内藤純也』と書かれていた。


「内藤さん?」


 そう私が尋ねると彼は大きくうなずいた。


「純也君はめったなことでは喋らないから質問がある時は俺にしてね。一応筆談用のメモ帳を持たせてるけど。」


「そうなんですね、了解です。」


 何か事情でもあるのだろうかとも思ったが詮索することでもないので聞くのはやめておいた。文庫本に視線を戻そうとするとマスターが声をかけてきた。


「秋葉ちゃんは今日授業ないの?」


「あったんですけどさっき丁度終わりました。というか、聞いてください、さっきの話なんですけど」


 そう言って私は本を閉じて先ほどの授業と教授のことを説明した。

 一通り話を聞いたマスターは言った。


「不思議な授業もあるもだね。その教授も気難しそうな人だ。とりあえず最後の授業の出席だけは忘れない様にしなくちゃね。」


「そうですね。でも本当に単位が出るのかちょっとだけ不安です。」


「そこはその教授の言葉を信じるしかないんじゃない?」


「まあ、逆に信じることしかできないんですけどね。」


「それもそうだね。」


 そういってマスターは笑った。私は今度こそ本を読もうと思い文庫本を開くが栞をはさむことを忘れていたためどこまで読んだのかわからなくなってしまった。仕方がなく、そこら辺まで読んだであろう場所を開いて文字を追い始めた。

 それからしばらくの間は本を読みながらコーヒーを飲んで過ごした。

 優雅な午後に邪魔が入ったのは午後三時過ぎのことだった。扉が開いたことを意味するからんからんという入店音が響き誰かが来店した。一瞥もくれることなく本を読んでいるとその客は私のテーブル席の対面に座った。

 驚いた私はその人を見つめた。運悪くマスターは一服休憩中であり、内藤さんはあまりにも自然に私の前に座ったその人を私の知り合いだと思ったらしく店内清掃に戻ってしまった。

 私の体がこわばった。眼前に知らない人間が鎮座しているのがこんなにも恐ろしいことだとは知らなかった。叫び声でもあげてやろうかと考えているとその男性は声をかけてきた。


「怖がらせてしまって申し訳ない。危害を加えるつもりはないんだ。」


 セリフが胡散臭すぎる。そう思ってじっと彼を見つめる。


「俺が美形だからってそんなに見つめないでよ。」


 とんでもなく的外れなことを言ってきた。美形だから見つめたわけじゃないし、なんなら美形でもない男は話を続ける。


「外で君のことを見たんだ。君って彼氏いたりする?」


 私は首を振った。


「そう、よかった。年は?」


「初対面の女性に年齢の話なんて不躾ですね。」


 それを聞いて彼は笑った。


「やっと喋ってくれたね、よかった。」


「別に、今まではびっくりしてただけです。」


「そうは見えなかったけどね。」


「よく言われます、表情に出にくいタイプなんです。」


「へえ、ポーカーフェイスってわけか。」


 なんだこの男は。そんな疑問で頭の中は満たされていた。同時にこわばっていた体は徐々に落ち着きを取り戻し自然体になっていた。


「そういうことです。それで、何の御用ですか?」


 疑問をストレートにぶつけた。どれだけ記憶をたどってみてもこの男性と私は初対面であるはずだ。自慢ではないが人の顔を覚えるのは得意だった。名前と結びつけるのは苦手だが。


「御用か、御用ってわけじゃないんだが、」


 かれはそう言って私を見つめて、突然かしこまったような口調で言った。


「ナンパしてもいいですか?」


「え?」


「いや、実はこういうのは初めてなんだよ。信じてもらえないかもしれないけど。だからなんというか、作法みたいなものがわからなくって。これであってたりする?」


「わからないですけど容姿くらいは褒めといたほうがいいんじゃないですか?」


「おお、なるほど。じゃあテイク2ってことで。」


 彼は咳払いをはさんで言った。


「お姉さんきれいだね。ちょっとナンパされてくれない?」


「嫌です。」


 びっくりしたような顔をした彼は少し固まって言った。


「え?何がダメだった?」


「いや、およそすべてじゃないですか?」


「痛烈だね。」


「名前くらいは名乗ったらどうです?」


「確かに、じゃあ三度目の正直ってことで。」


 再び咳ばらいをして言った。


後藤悟ごとうさとるです。一目ぼれしちゃったんだけどナンパしていいかな?」


「まあ、いやですけど。」


 それが私と悟の出会いだった。

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