幕間
届かない声
それから数日がたった。
センチメンタルな感情は幾分ましになり、テストが始まった。
始まってみれば拍子抜けするほどに簡単だったテストは私を特段苦しめることもなかった。レポート課題等も余裕を持った期限が設定されているため、思ったよりも優雅な日々を過ごしていた。明日のテストが終われば晴れて私たちには夏休みが訪れる。心待ちにしていた夏休みだが、今のところ予定はほとんどなく、夏季の短期バイトでもして暇をつぶそうと考えていた。
去年まではなんだかんだで春や佐々木、吉野との予定や部活動があり忙しくはないが充実した夏休みを送ることができていた。しかし、今年はそうもいかないだろうというのが現実である。吉野のことを信じるとは言ったが、きっともうあの宝物のような日々は帰ってはこないだろうと私の中の誰かが言っていた。
いつものコンビニにたどり着いた私は桜庭さんを待っていた。いっそ彼女とどこかに出かけることはできないだろうか。実現することがなさそうな願望を思い描いた。それでも望むくらいは許してほしかった。私に残ったのはもう彼女くらいしかいないのだから。
「やあ、江嶋君。今日も暑いね。」
颯爽と現れた彼女がいつもよりも元気そうな声で私を呼んでいた。
「そうですね桜庭さん、今年の夏は暑いらしいですよ。」
「そうなの?それは残念なことね。」
「いや、なんで他人事なんですか。」
彼女はその質問には答えず、私を見て笑っていた。私はポケットからマッチを取り出して、彼女に渡そうとする。しかし彼女はそれを手で制止した。その手首の内側には以前と同じように絆創膏が貼ってあった
「今日は自分で火を持ってきたんですか?」
私は少しだけ寂しさを感じた。ここで彼女に火を貸すことが私の日常だったからだ。それが失われることに何の問題もないはずだが、それでもなぜか寂しかった。
「違うわ、今日は吸わないの。」
「へえ、禁煙ですか。それなら何でここに?もしかして僕とお喋りでもしに来てくれたんですか?」
「そんなところよ。」
彼女はベンチに腰掛けることもなく、私の前に立っていた。少しだけ遠いその場所に少しでも近づきたくて、私も立ち上がる。しかし彼女の目はそれ以上こちらに来るなと言っていた。
「江嶋君に渡したいものがあってね。」
そういって彼女はポケットから取り出した何かを私に投げた。キャッチしたそれを確認してみるとそれは何かの鍵だった。『16』という番号札がつけられていた。
「なんの鍵ですか?」
「コインロッカーよ。」
「どこの?」
「それを言ったらつまらないでしょ。探しなさい、宝さがしみたいなものよ。」
「へえ、ちょっと面白そうですね。期限はいつまでですか?」
「いつでもいいわ。でも、ちゃんと見つけて頂戴。まあ見つけられなくっても、それはそれでいいわ。」
意味が分からなかった。言葉に困り、彼女を見つめた。そんな私に彼女は声をかける。
「それじゃあ江嶋拓馬君さようなら、健闘を祈るわ。」
あの日から彼女はずっと私との別れで『さよなら』と言い続けている。
振り返り、私に背をむけて彼女は歩き出した。そしてそっと何かをつぶやいた。
「いまなんて、」
それを私は聞き返したが、彼女はひらひらと手を振り、私のほうをついぞ振り返ることもなかった。
私は道路を渡る彼女を見ていた。その足取りはいつもよりもはっきりとしていて、どこに行くのかをすでに決めているように見えた。
追いかけなければと思ったとき、すでに彼女の姿はどこにもなく、星型の斑をもった三毛猫が私のそばにたたずんでいた。
力が抜けてベンチに腰掛けた。煙草に火をつけた私の隣で、猫がにゃおと鳴いていた。
それからしばらく一人で煙草を吸っていた。虫の声や車の通る音、夏の喧騒が聞こえているはずなのに、周りはやけに静かだった。
煙草の火を消して、足元の猫を撫でた。佐々木の気持ちにこたえられなかったあの日から昼夜を問わず、この猫は私の前に現れていた。いつもはさんざん私の前で鳴いて、撫でようとすると姿を消してしまうのに今日はやけに甘えてきている。
「なんだ?いつもはそっけないのに今日はどうしたんだ?ん?」
足元の猫は気持ちよさそうな顔をして喉を鳴らし、私の膝の上にのって頭を擦り付けてきた。姿を消したり甘えてきたりと、本当に気ままなものだ。それが猫という生き物の魅力なのだが。
「にゃ、」
そういって、その猫は私の膝の上から降りてすたすたと歩いて行った。
どこに行くのかと思えば駅の方向に歩き出し、私のほうを向いた。私は『じゃあな』と手を振ったが、そうではないとでも言うように猫は鳴いた。私にはその鳴き声がついて来いと言っているように思えて、立ち上がって猫を追いかけた。
そのまま猫は私の前を歩きだした。
________________
猫は駅へとたどり着き、必然的に私も駅にたどり着いていた。途中でおよそ人間が通るべきでない場所を通ったり、フェンスを越えたりしていたためか、いつもよりも短い時間でコンビニから駅へとたどり着けたような気がした。駅にはコインロッカーがあり、16番は使用中になっていた。開けたい気持ちにかられたが、猫が私を呼んだため今はその気持ちをぐっとこらえる。
猫はそのまま改札のほうへと向かっていた。日付を跨いだ直後のこの時間は帰宅ラッシュのピークを過ぎているため人の通りは多くはなかったが、踏まれないか心配だし、もしも線路に猫が飛び出しでもしたら問題だ。私はあわててそれを追いかけた。
幸いなことに猫は改札の方向に向かうことはなかったが、その改札には見慣れた女性ふたりの、桜庭さんと春の姿があった。桜庭さんは改札を抜けた。こんな時間から電車に乗ってどこへ行くというのか。追いかけなければならない。さっきはできなかった、でも今度は間違わない。
改札を抜けてこちら側に出てきた春は私を見つけ、声をかけてきた。
「たっくん、こんな時間にどうしたの?どこかに行くつもり?」
「どこにもいかないよ、猫を追いかけてきたんだ。」
ホームへと向かう桜庭さんを見ながら私は答えた。そして近づいてくる春が手に持った定期券を奪い取りながら言った。
「ごめん、すぐ返すから。」
慌てふためき、何か声をかける春を背にして私は桜庭さんを追った。
『どこへ行くのか』
その答えを、本当は私は知っていた。
去り際の彼女の言葉を僕はしっかりと聞き取っていて、そんな言葉を口にするあの人が信じられなくて聞き返したのだ。
『どうか君だけでも、幸せになって。』
そんな言葉を言う人間がこの後にどうなるかなんて、希望的観測を抜きにすれば決まっている。死ぬのだ。
それはもう、遺言といわずしてどう呼べばよいのかもわからないほどに静かな断末魔だった。
手首の絆創膏もきっとリストカットの痕跡を隠すためのものだったのではないだろうか。そんな考えが頭をよぎるが、もう遅い。
あの時こうしていればなんて後悔をするのは今じゃなくていい。
まだ間に合う、間に合ってくれ。そう思いながら走って彼女を追う。
「一番線、快速が通過します。」
アナウンスがそう告げた。桜庭さんの姿はすでに見えない。ホームに降りて電車を待っているのだ。行先なんかない癖に。
「邪魔だ、どいてくれ。」
人の流れが私の行く手を阻むが強引にそれをかき分けて進んでいく。改札を抜けてホームへと向かう。
電車の走行音が聞こえる。間に合わない、私の頭に残ったごくわずかな冷静さと現実がそう言っている。
電車のブレーキ音と警笛が私の頭を晴らした。間に合う間に合わないは、今考えることじゃない。
階段を駆け下り、ホームへと着いた私の目に桜庭さんの顔と姿が映った。しかしそれは、線路へと飛び出すため、あるはずもない地面という虚空に足を踏み出す、身を投げる寸前の彼女の姿だった。
私は彼女の名前を呼んだ。ひどく不格好で、全く他人を意識していない叫び声。裏返っていたかもしれない。もしかすると、叫んだと思っただけで本当は声になんてなっていなかったのかもしれない。それでも届いてくれればよかった。
「桜庭さん!」
虚しくもその叫び声は、電車のブレーキ音にかき消されていった。
どん、という鈍い音が周囲に響いた。
その後に聞こえてきたのは女性の叫び声と、私自身が膝から崩れ落ちた音だった。
「救急車を呼んでくれ!早く!」
知らない男性の怒号が聞こえた。
最後に見た彼女の顔が目に焼き付いて離れない。
_____どうしてあなたはそんなにも、幸せそうな顔をしていたのだろうか。
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