その後
切れた電話をポケットへとしまい、空を見上げた。現代社会の生んだ街灯は星の光も月の光も曖昧にし、明るさをの代わりに想像力を奪っていった。だが見上げた星空には、少なくてもそこにいる、そう言わんばかりに散りばめられ、きらめく星々があった。
このままここにいれば桜庭さんが来るだろうか、きっと来るだろう。今まで毎日顔を合わせている私には何となくそれが当たり前であるような気がしていた。ついさっきその当たり前の関係を壊したのは私だというのに。
猫の鳴き声がした。そちらを見ると三毛猫がこちらを見ていた。いつもならば近づいて撫でまわしているところだったが、今日は少なくともそんな気分ではなかった。何をするでもなくただただ空を見上げていた私を不審に思ったのかわからないが、猫はこちらを見ながらしばらく鳴き続けていた。コンビニから漏れた明かりが照らしたその猫をもう一度みると、斑模様が星のような形をしている。
「おしゃれな模様付けてるじゃないか。」
こちらが見つめると、すぐに歩き出してどこかに行ってしまった猫を見ながら私は一人でつぶやいた。
することもないのでもう一本煙草を吸うべくマッチと煙草を取り出し、火をつけようとしていると彼女が現れた。いつものパーカーはこの暑さで役目を終えたのか、ショートパンツと長袖丈のTシャツを身にまとっていた、心なしかやつれているように見えたが夏バテだろうか。そんな風に思っていると彼女から声をかけてきた。
「どうしたの?ひどくつらそうだけれど。」
「いえ、ちょっといろいろありまして。」
「そう、まあ人生いろいろよね、本当に。」
深くは事情は尋ねまいという風な彼女にいつも通りマッチを投げ渡す。それを受け取った彼女はいつも通りに煙草に火をつけた。煙草を口元に当てる彼女の手首には絆創膏が見えていた。
「手首、どうかしたんですか?」
彼女はあわててそれを隠した。
「この前転んじゃって。心配してくれてるの?ありがたいけれど人を心配できるような人間の表情には到底見えないわよ。」
「今の僕ってそんなにひどい顔してますか?」
「ええ、とってもつらそうでちょっと寂しそう。」
そうか、私はつらくて寂しそうなのか。彼女に言われたその言葉で自分の精神状態を客観視する。
「あたりです。つらくて寂しいんですよ。」
それを聞いた彼女が少しだけ黙ってから、私に話しかけた。
「事情を聴くつもりはないわ。でも話す気があるなら相槌くらいは打ったげる。」
「優しいんですね。」
「優しい?始めて言われた。」
すねるように彼女が言った。嘘だと思われたのかもしれない。
「本心ですよ。」
「そう?じゃあそういうことにしといてあげる。」
そう言って私に笑いかけた。その表情を見て、私は彼女のことが好きなのだとわかった。いや、認めたというのが正しいのかもしれない。
何を知っているでもない、この時間この場所でしか会わない彼女に惚れている。その事実が私の胸をまた締め付けた。やはり私は、佐々木の気持ちにこたえるべきだったんじゃないか、そんな後悔が胸に残っている。
沈黙を破って私は話し始める。ありのまま話すわけにもいかないので、申し訳程度ぼかして話そうと思うが、きっと察しのいい彼女は大方のことを察してしまうだろう。だが、それでも話してしまおうと思った。
「僕の友人の話なんですが、長い間ずっと友人として接していた子に告白されたんですよ。そして振ったんです。」
「友人、ね。」
「ええ、友人が。そしてその友人はその子のことが嫌いなわけじゃなかったんです。でも、本当に好きな子は別にいた。」
ちゃんと聞いているぞというように彼女はうなずく。
「でも、その友人はその子と、いや、その子を含む友人グループと会えなくなるのは、今までみたいに居られなくなるのはつらいんですよ。
遊びに誘えば一緒に来てくれる、顔を合わせれば笑いあっていて、一緒にいるとどこか安心する。そんな人たちを失ってまで本当の気持ちなんて伝えるべきだったんでしょうか?僕にはどうもわからない。」
再び、彼女は頷いた。
「友人が我慢すれば、意地を張れば、なにもなく日常が流れていったと思うんです。その友人は正しい判断をしたんでしょうか。」
それで話は終わりだった。煙草の火を消してため息を吐く。
「話は終わりです。ご清聴ありがとうございます。」
「いえ、聞いていただけの私にお礼なんていらないわ。」
「それもそうですね。」
私は笑った。うまく笑えていたのかはわからないが。
それを見て彼女は言った。
「その友人にとって、正しさって何なのかしらね。」
「さあ、そんなものとっくの昔に見失いましたよ。」
あるはずの正解を探しだし、その答えを正しさというのだと思っていた。そんなものがないから誰もが悩み苦しんでいるというのに。
見失う前に見つけた正しさの欠片が、きっと私たちを動かしている。それがすれ違ったりするから人と人との関係に悩むのだろう。その欠片が本当の正しさなのかなんてわかるはずもないのに。
「私は正しいと思うわよ。何の根拠もないけれど。告白した子も、君との間に手加減された愛がほしかったわけじゃないだろうから。」
「友人の話ですって。」
「あら、そうだったわね。ごめんなさい。」
やっぱりお見通しらしい。むしろこの話し方で友人の話だと思う人のほうが少ないような気もしたが。
「きっとその子ともまた笑って話せる日が来るわ。賭けてもいい。」
それはだれがどう聞いても嘘だった。それでも今はその慰めが心地よかった。
「ありがとうございます。その友人も救われたって言ってました。」
「ご友人にいつの間に今の話を伝えたの?」
「実はテレパシーが使えるんですよ。」
自分でもふざけた話だと思ったが、どうやら彼女はお気に召したらしく口元を抑えて笑っていた。
話を変えるべく、彼女に声をかけた。
「僕の心配をしてくれたお礼に僕も余計な心配をしようと思ったんですが、少しやつれてるように見えますけど大丈夫ですか?」
彼女は驚いたように言った。
「ほんとに?夏バテかしらね。」
「そうめんの食べすぎですか?」
「私そうめん嫌いなのよね。」
「桜につづいてそうめんまで。季節の風物詩のことごとくが嫌いなんじゃないですか?」
「そうかも、桜も嫌いだしそうめんも嫌い。ちなみに言うと運動会と雪も嫌いよ。」
「数え役満、ですね。嫌いなものが多いと生きづらくないですか?」
「そんなこともないわよ、無理に好きになろうとするよりも楽でいいわ。」
「そうですか。言われてみると一理あるかもしれないですね。」
「そうめん以外に食べ物の好き嫌いがないのが功を奏した感じはあるかもね。そうめんはほかの食材と違って自分で食べようと思わない限り出てこないもの。」
「たしかに。玉ねぎやにんじんなんかだとどうしても料理に入っていることがありますし。抜いてもらおうにも見栄えに影響しますからね。」
「江嶋君はないの?嫌いな食べ物。」
「そうですね、強いて言えば椎茸ですかね。あんかけ系統の料理に入っている椎茸ってちょっとだけナメクジに似てませんか?」
「江嶋君のせいで私も椎茸が食べられなくなりそうな例えね。最悪だわ。」
「僕も友人に言われて嫌いになったのでお互い様ですよ。」
「負の連鎖ってやつね。きっとその友人も別の人に言われたんでしょうね。」
「ありえますね。」
そういっていつものような会話が繰り広げられた。私が失ったものの代わりにはならないが、変わらないものもある。それだけが救いだった。
この時の私はうまい具合に話を逸らされていることに気付いていなかった。案外僕の日常なんて簡単に、しかも突然に変わっていくことを先ほど知ったばかりだというのに。
煙草を吸い終わった彼女は話を切り上げて私に告げた。
「それじゃあ、江嶋君。さよなら。」
聞きなれない四文字の違和感に、このときの僕はまだ気づいていなかった。
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