序章 2

 喫茶店に到着するとそこには既に佐々木の姿があった。

 佐々木は座ってコーヒーカップに入った何かを口にしていた。このように黙っていれば美人の部類に入るのだが喋らせるとなんだか残念なのである。きっと今から遅れてごめんなどと隣に座ろうものならあの飲み物の代金を私が持つことになるだろう。けれどそれを避ける方法は私にはないのでさっさと声をかけるのが吉である。そう考えた私は喫茶店の扉を開いた。

 からんからんという心地の良い音が響きマスターが会釈して私も会釈を返す。


「すまない待たせた。」


 思ってもいないがそんな声をかけると佐々木が振り返り私に言う


「待ってないけどこのコーヒーはあんた持ちね。」


 予想通りの展開にため息の一つも吐きたくなるがまあ仕方がない。

 皮肉たっぷりに私は言う。


「かしこまりましたお嬢様。」


「よきにはからえ、じゃあさっさと課題に入りましょう。私も持ってきたから一緒にやりましょう?」


 ここで一つ確認しておかなければならないのは彼女と私の通っている大学は全く異なり、学科どころか学部も異なるということだ。なので一緒に課題をやるといってもお互いに何かを教えることもできなければ何かを教わることもできない。


「一緒にって言っても分野違うから教えたりできなくないか?高校の頃みたいにはいかないぞ。マスター、ブレンド一つください。」


 マスターが静かにうなずき、慣れた手つきでコーヒーを淹れ始める。

 高校時代の私たちは定期テストや行事のたびにこの喫茶店に来ては意味もなく時間を使っていた。

 高校生のわびしい財布事情では毎回の来店ごとに飲み物の一杯を注文するのがやっとであったが、ここのマスターが寡黙であり、私たちに注意してこないのをいいことにたった一杯の注文で二時間三時間と時間をつぶしていた。

 卒業式の後に思い出めぐりと称して学校周辺を練り歩き、最後の最後に私、佐々木、春、吉野の4人がここにたどり着いた時マスターは初めて私たちに声をかけた。

『卒業おめでとう』

 たった一言ではあったが、後にも先にもマスターが口を開いたのはあれきりだった。卒業式で号泣して佐々木に抱き着き涙と鼻水の混ざった何かを制服にこすりつけていた春の涙腺がそこで再び決壊し、マスターは慌てふためいていた。さすがの春もマスターのエプロンを涙で濡らすならまだしも鼻水で濡らすのは申し訳なかったのか抱き着いたりはしなかったが。

 そんな風に青春を謳歌していた私たちも大学生になりめっきり集まることがなくなった。月に一度は確実に4人で顔を合わせているので交友関係が切れてしまったわけではないが毎日のように顔を合わせていたあのころと比べれば寂しいと感じているのはきっと私だけではないと思う。


「それはやってみないとわからないじゃない。御託はいいからさっさと課題やるわよ。」


「無茶苦茶だな。」


「無茶苦茶なこと、好きでしょう?」


 不敵に笑う佐々木に私も笑い返した。


「よくお分かりで。」


________________


 ブレンドコーヒーを受け取り、課題を取り出す。私が持ってきた課題は数学の課題であった。大学の数学ともなると私の理解の容量を軽く超えてくる問題や定理も多く、私の頭を悩ませている。

 問題の印刷された紙とルーズリーフの上にペンを走らせる。先ほどの授業でメモを取っていなかったことが仇になるかと思われたがこれまでの授業の復習が主な内容だった。手を動かしてみて予想よりも時間がかからないようで安堵する。

 ペンを動かし始めてどれくらいたっただろうか、課題も終盤に差し掛かかり難問が登場した。解けるかどうかはわからないが、兜の緒を締めなおすかという時だった。


「彼女はいないままなの?」


 佐々木が私に尋ねる。顔を向けると、いつの間にか取り出したノートパソコンに何やら打ち込んでいる。佐々木も課題を片付けている最中らしい。


「いないね、残念ながら。」


 私は答える。


 幾度となく行われた件の4人での勉強会において春を除く私と佐々木と吉野は会話をしながら勉強することができるようになっていた。

 というのも、春が全く勉強せずに永遠に話し続けるので私たち3人は勉強の手を止めるか会話しながら勉強するかの二択を選ばなければならず、進学校と呼ばれる場所に通っていた私たちに勉強しないという選択肢はなかったからだ。最初こそ苦労して相槌を打つのがやっとであったが、今となれば普通の会話ならば筆を止めることなくできるようになっていた。

 なぜ春だけがこの技術の習得をしていないかというと、必要がなかったからである。春は私たちと一緒にいる間全く勉強をしなかった、それでいて成績は常にトップだった。一度を除いてすべての定期テスト、校内模試、果ては授業ごとに行われる小テストにおいても常にトップであった。吉野は春についてこういった。


『見た目も言動も行動も、僕より頭がいいとは思えないんだ。けど、事実として僕は一度だって規定されたルール内で春に勝つことはできなかった。真の天才がいるとすれば春のことだよ。来世は何になりたいかって質問あるだろ?僕の来世は春の娘か息子がいいね、この天才の遺伝子を引けるって考えただけでワクワクするよ。』


 春は褒められていると判定したのか体をくねくねさせながら照れていた。それを見て吉野はため息をついていた。

 ちなみに、私と佐々木はシンプルに言ってることが気持ち悪かったので引いていた。

 思い出して若干の鳥肌が立っていたが、そんなこと想像もしていないであろう佐々木は会話をつづけた。


「へえ、候補もいないの?」


「これまた残念ながら。」


「残念だとは思っているのね。笑える。」


それはさすがに失礼だと思う。だがまあ、親しいからこそできる会話だった。


「笑ってもらえて何よりだよ、彼女もいなくて笑いの一つも取れないんじゃ、悲しくって死にたくなるね。」


 目の前の問題に答えながら受け答える。

 佐々木がキーボードをたたく小気味の良い音が耳に入る。佐々木が言う。


「まあ、もう時効よ。気にしないでさっさと新しい女を探しなさい。」


この女にしては珍しく慰めてくれているようであった。


「そうだな、どこかにいい出会いでもないものかね。」


私も答える。


「出会いは求めないと与えられないらしいわよ?」


「本当か?だとしたらまずいな、生まれてこの方出会いの求め方なんて習ってない。何かの公式に値を代入すればいいのかな?」


「本気で言ってるとしたら、頭の病院行ったら?」


「冗談だよ。」


「じゃあ10点ね、千点満点で。考えうる限り最低の答えよ。」


「ずいぶん辛口だな。そんなにつまらなかったか?」


佐々木は無言だった。沈黙が答えということだろう。

そこで会話は終わりお互いに課題に向き合う。


それから10分とたたないうちに私は課題をしまい、ポケットからアメリカンスピリッツを取り出した。それを見た佐々木が言う。


「そういえば煙草なんて吸ってたわね、時代も時代だし辞められるうちに辞めといたほうがいいわよ。」


ターコイズブルーのボックスから煙草を取り出し、とんとんと煙草の葉を詰める。


「その葉を詰めるのも意味ないらしいわよ。煙草なんてさっさと辞めたら?」


減らず口をたたき続ける佐々木のほうを向き直り、


「そういうことは自分が禁煙してから言ったらどうだ?」


私は佐々木の膨らんだ胸ポケットを指さしながら言った。

少しだけ笑って佐々木は答えた 


「えっち、どこみてるのよ?」


棒読みで言った後、佐々木は胸ポケットからラッキーストライクを取り出した。


「せめてもうちょっと感情をこめていってくれ。」


私は煙草に火をつけようとマッチを探す。しかしポケットにその姿は見えない。どうやら忘れてしまったようだ。そんな私の横で、佐々木は煙草に火をつける。

黙って手を差し出すと、佐々木は何も言わずにジッポライターを手渡した。

煙を吐いた彼女は言う。


「さっきの話だけど、私を彼女にしとくってのはどう?」


一瞬時が止まったかのような静寂があった。

落ち着いて煙草に火をつける。ジッポライターを消し、金属音が響く。


「それは、」


どういう意味だ。

そう続けようとしたが実際に私の口から放たれたのは全く違う言葉だった。


「それは、冗談にしちゃ笑えないな。」


お互いに煙草を一吸いし、煙を吐いた。


「そうね、忘れて頂戴。課題は終わったの?」


顔色一つ変えずに佐々木は言った。

果たしてそれは本当に冗談だったのか。いずれ答えを出さなければならない問がまた一つ増えたような気がした。

煙を吐き、私は答える。


「おわったよ、手詰まりってやつだけどな。」


マスターが私たちの間に灰皿を差し出した。

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