序章 1

「---であるので、この式は変形できて、」


 パソコンの画面に流れる貫禄のある男性の動画。

 私は授業を受けていた。いや、聞き流しているだけの授業に対して受けていたという表現が正しいのかどうかはわからないが、とりあえず授業の動画が流れていた。

 授業を受ける際に甲斐甲斐しくメモを取るような真面目な大学生ではない私はいつも通りに画面を眺めながら時間がたつのを待っていた。時刻は午後三時半を回ろうとしており、一限の授業の予習課題を行うために早く起きた私を軽い眠気が襲っている。幸いにして授業の残り時間は5分程度であり、今日の授業はこれでおしまいだったので、この後は午睡にふけることができる。

 夜に寝れなくならない程度に仮眠をとろうと考えていた。そんな私に気を遣うかのように画面内の教員が言った。


「-という結論が導かれるわけです。すこし難しい話でしたので眠くなってしまった人もいるでしょうが、大切な内容ですのでしっかりと確認をしておいてください。

 それでは少し早いですが授業を切り上げたいと思います。」


 授業を早めに切り上げる教員は大学生に好まれる傾向がある。私も例にもれず無駄に授業を延長しない教員が好きだった。この授業の担当教員に感謝しようとしたその時、画面内の教員はつづけた。


「本日は課題がありますので忘れずに提出してください。お疲れさまでした。」


 この一言で、彼への感謝はいら立ちへと姿を変えた。

 もしかすると十五分程度で終えることのできる課題の可能性もある。そんな淡い期待を抱いた私は授業動画のファイルを閉じ、課された課題を確認した。十五分で終わるどころか二時間弱は机の前に拘束されることが確実である課題のファイルを目にし。ため息が漏れる。


「着払いでピザでも送ってやろうか」


 教授にはぜひ夜道に注意していただきたいと思いながら、机の隅に置かれた煙草を手に取り外へ出た。



 いつものコンビニの喫煙所に人の姿はなかった。目覚まし代わりに購入したコーヒーを地面に置き、慣れた手つきで煙草に火をつける。

 見慣れた景色でも、昼と夜では全く違う顔が見えることがある。普段彼女と何気ない会話を交わす午前0時頃の景色と今一人でここから見える景色。同じようで全く違うのはなぜだろうか。一体彼女は何者なんだろうか、出会ってから幾度となく浮かんだ疑問に私は常に蓋をしてきた。詮索はしない、深追いもなし、この喫煙所以外では連絡も取らない。それどころか名前すら知らない。

 だが、もしかするとそんなお互いに何も知らない相手だからこそ心地の良い関係が生まれているのかもしれない。もし彼女の連絡先を私が知っているとして、私は彼女に連絡を取るだろうか、喫煙所以外での関係を求めることはあるのだろうか。さらに言えば逆はどうだろう。彼女が私の連絡先を知っているとして、彼女は私に連絡をしてくれるだろうか。

 その疑問の答えを出すことが何かの終わりを表しているような気がして、私は考えるのをやめた。いつかは答えを出さなければならないとしても、今のまま、停滞することこそが得策であると私の中の何かがささやく。停滞は悪ではない、変化を恐れる臆病さこそが多くの人を平凡な人生へと導いてくれる。であれば、彼女と出会ったという非日常に感謝することはあれど、自らそれを破壊することもない。

 煙を吐き出し、反対の手に持ったコーヒーを一口飲む。


 いつの間にか短くなったタバコの火を消したそのとき、ポケットのスマートフォンが鳴った。取り出したスマートフォンを確認すると着信だった。

『佐々木楓』という名前を確認して電話に出る。


『もしもし、今時間大丈夫?』


「大丈夫じゃないって言ったらどうするんだ?」


『そのときは申し訳ないって言った後に本題に入るわよ。どうせ暇でしょ?

 それとも本当に忙しいの?』


「ふっ、俺は今をときめく大学生なのだから、暇な時間などあるはずもないだろう?最近じゃ、分刻みのスケジュールの管理法を模索しているくらいだ。ということで今日はこの辺で。」


『あー、はいはい。それは大変なことで。で、本題なんだけど私も暇なんだよね。どこかに出かけない?」


「スルーすんなよ、まあいいけど。回答としては出かけないの一言に尽きる。今日はこの後予定があるから付き合えない。すまないな。」


 画面越しの佐々木が黙り込む。

 佐々木は高校時代からの友人だ。決して社交性に富んでいるとは言えない私の数少ない友人であり、今も連絡を取り合っている三人の友人の中の一人である。そんな友人の誘いであるのでできる限り答えてあげたいが、今日はさすがにタイミングが悪い。課題が残っているのだ。

 いたたまれなくなった私が話をつづけた。


「実は課題があってさ、今日中の提出なんだ。この後はそれをやるから付き合えない。すまん。」


すると彼女はすぐに答えた。


『なんだ、あんたから予定があるなんて言葉聞くと思わなかったからびっくりしちゃったじゃない。課題なら初めから課題って言いなよ。』


「俺を友達が少なくて常に暇な人間だって認識してるな?俺にも予定くらいあったっておかしくないだろ。」


『あんたに予定があったとしてもどうせ吉野か春でしょ?その2人にも誘いの連絡は入れて断られてるの。』


「いや、その二人のうちの一人と俺が二人で遊びに行ってるかもしれないだろ?というか、俺って優先順位的に一番下なの?ちょっと悲しいんだが。」


『ちがうわ、バカ。あんたにもほぼ同時にお誘いの連絡をしたのにあんただけ返信がなかったのよ。』


 私はあわててトーク画面を確認する。確かに三十分ほど前に連絡が入っていた。


「本当だ、それはすまないことをした。」


 だが、その時間は私がかの憎き教員から課題の有無を言い渡される前であったのでその時間に確認していたら了解の返事をしていただろう。課題と佐々木の間で板挟みになっていたと思われるので結果としては確認していなくてよかったのかもしれない。


『まあ、別にいいけどね。そんなことよりも、私はもう完全に出かける気に満ちていたから着替えも化粧もばっちりなんだけど、それについてどう思う?』


「まあ、どうも思わないな。俺は自分の課題でいっぱいいっぱいなわけだから。」


『知ってる、さっきそう言ってたし。この埋め合わせはどうしてくれるのって言ってるの』


 埋め合わせも何も俺は何も悪いことはしていない。なんてことを言ったって無駄であろうことはこれまでの付き合いが証明していた。私や吉野が相手だと無礼で強引なのが佐々木である。私はあきらめて言った


「わかった。埋め合わせに関しては今週の土曜日なんてどうだろう。」


『それでいいわ。十時に駅前ね。』


「かしこまった」


 まあ、どうせすることのない休日なので友人の買い物に付き合うくらいはかまわない。


『それで、今日はどうするの?』


「何を言ってるんだ?誰か通訳を呼んでくれ。」


『口に出てるわよ。』


「ああ、ごめん。あまりに日本語が通じてなかったから。

 これから佐々木にもわかる簡単な日本語で説明するよ。俺は今日家で課題をする。今日の埋め合わせは土曜日に駅前に十時前。それで解決だろう?何が不満なんだ?」


『今日の私が出かけたい気持ちは解決してない。』


「俺の知ったことじゃない。」


『がたがたうるさいわね。課題を持って喫茶店集合。準備が出来次第。伝達事項は以上よ。』


「伝達事項は異常か。わかってるじゃないか。」


『理系の癖に一人前に言葉遊びを仕掛けてこないで。じゃあね。』


 電話が切れた。


「無茶苦茶だ。あんなキャラだったか?」


 独り言がこぼれた。だが、こうなってしまった以上は仕方がない。

 私は課題をとりに家に帰った。せめてもの救いは佐々木の指定した喫茶店が喫煙可能であることだった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る