私と桜

 私たちが喫煙スペースとして利用しているコンビニの前には道路を挟んで、2本の桜と1本の古い街灯が立っている。

 コンビニから光が漏れている。そのため、暗いということは無いが明るいということもないという程度の光度で、私たちは日々肺を汚しながらなんということは無い雑談で暇を潰す。

 薄暗い街灯は私たちを照らすには心もとないが桜の木を照らすには十分で、暖冬からか早めに咲いた桜を見ながら吸うタバコは趣深く、喫煙の罪悪感を忘れさせてくれていた。

 よって、ほぼ毎日喫煙に興じる我々がその変化に気づくのは容易だった。

 先に口に出したのは彼女だった


「桜、完全に散ったわね。」


 眼前のふたつの桜の木は示し合わせたかのように花を散らしきり、若々しい緑の葉のみが寂しくその木を賑わしていた。


「最近は風が強い日も続いてましたし、3月の半ばで満開でしたからね。」


「そうね。とは言っても悲しいわ、綺麗だったのに。」


 あなたの方が綺麗ですよ、冗談混じりにそう言おうと思ったがやめた。そんな古典文学のようなセリフで彼女が喜ぶとは到底思えなかった。


「そうですね、儚げで綺麗でした。ここで煙草を吸ってなかったら桜が綺麗なんて知らなかったです。」


「日本に生まれておいて、今まで桜の美しさに気づかなかったの?珍しい人もいるものね。」


「気づいてなかったわけじゃないですよ。なんて言うか、再認識したって感じですかね。毎日ここで見てると今まで風景だったものが日常になったような気がして。単純接触効果ってやつかも知れません。」


 桜相手に単純接触効果というものが成立するのかは知らないが、間違っているわけではないと思う。

 実を言うと、毎年花を散らすこの樹木が私は好きではなかった。生きている限りピークの瞬間が毎年あるというのは、羨ましくもあり、妬ましくもあった。

 どういう心境の変化だろう。ふと冷静になってみると自分が桜を綺麗と思う理由があまりにも見つからない。

 タバコをふかし、黙ってしまう。


「また、顎に手を当ててるわよ。考え事?」


「いえ、些細なことですよ。お気になさらず。桜好きなんですか?」


 彼女は桜に芽吹いた若葉を見ながら言った。


「好きじゃないわよ、綺麗だとは思うけど。」


 それは矛盾していないだろうか、


「そのふたつって共存しうるものですか?」


 この人ならば、私の曖昧な心中を整理してくれるような気がした。


「もちろん。どれだけ美しいからといってそれが好きだとは限らないじゃない。例えばそうね、蟹。」


「蟹。」


 オウムのように繰り返す。


「蟹ってとっても美味しいと思わない?」


「ええ、僕は好きですよ。美味しいじゃないですか。」


 高級なものを食べたことがある訳では無い。しかし旅行先などで食べるそれは、旅行の興奮で美味しく感じるということを無くしても十分以上に美味しく、好ましくもある。


「私も美味しいと思うわ。でも好きじゃない。」


「え、なんでですか?」


「食べづらいから。」


 即答され、僕は呆けてしまった。落ち着こう、そう思いタバコを吸う。煙を吐き、言葉を紡ぐ。


「、、、それだけですか?」


「ええ、手が汚れるし」


 彼女は悪びれるでもなく、真顔で肯定する。


「あんなに美味しいのに?」


「あんなに美味しいのに。」


「カニ雑炊なんかを食べればいいんじゃないですか?」


「あなた知らないの?蟹って脚を折って剥いて食べるあの瞬間も含めて美味しいのよ?カニ雑炊とかカニクリームコロッケはそれそのものを食べているのであって、蟹を食べてることにカウントするのはナンセンスよ。」


「でも、その工程が嫌いなんですよね。」


「ええ、嫌いね。会話も消えるし。」


 むちゃくちゃだ、そう思った。あるいは声に出ていたのかもしれない。


「むちゃくちゃだと私も思うわ。でも嫌いなんだもの、仕方ないじゃない。」


 彼女は続けた。


「私ね、自分の好きなものと嫌いなものに堂々と胸を張って生きていくことにしてるの。だからなんと言われてもカニは嫌い、食べづらいから。」


 その姿は本当に堂々たるものだった。

 それがなんだかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。


「素晴らしい生き方ですね、真似していいですか?」


「どうぞ、こんな私と同じでよければ。」


「じゃあ僕も桜が嫌いです。綺麗だってことは分かりましたけど。」


 誰でもなく自分に言い聞かせるために口にした。理屈にあっていない、頭の中で何かがささやいた。だがそれでも、自分の曖昧さを肯定しているような不快感はなかった。


「あら、私と同じね。でも私、お花見は好きよ。」

 思い出したかのように彼女は言った。


「実を言うとお花見ってしたことないんですよね。何が楽しいんです?あれ。そもそも何を持ってしてお花見って言うんですか?」


 彼女は信じられないと言わんばかりの顔で私を見た。そして私の右手でタバコがもう燃え尽きるのを見て言った。


「もう一本、タバコを吸って待っててくれる?」


 返事を聞くまでもなく自分のタバコの火を消し、足早にコンビニの入口をくぐった。彼女が戻ってきた時、その手に握られていたのは2本の缶ビールだった。


「あなた飲めるって言ってたわよね?」


 そう言うと、彼女の手から缶ビールが私に向かって放たれた。

 タバコを持ってない方の手でそれを上手くキャッチする。危うく落とすところだった。


「ナイスキャッチ!」


 そう言って彼女は笑った。そんな顔をされたら、投げたことに文句を言えない。私は尋ねる。


「なんで急にビールなんですか?」


「あら、知らないの?ビールってとっても美味しいのよ?」


「それは知ってます。なんでこのタイミングなんですかってことです。」


 返答の代わりにとでも言うのか、彼女は缶ビールのプルタブを引き、私と目を合わせる。

 私もプルタブをひいた。


「うわっ」


 先程缶をほうったせいか、勢いよく泡が吹き出した。慌ててそれを口に運ぶ。

 彼女はそれを見て言った。


「日頃の行いね。」


「投げたからです。」


「私のせいって言うの?」


「それ以外ありますか?」


 お返しにマッチ箱を投げる。彼女は難なくそれをキャッチし、慣れた手つきでタバコに火をつける。


「桜を見ながら気のいい仲間とお酒を飲んで談笑する。人はそれを花見と言うのよ。」


「花散ってますよ?」


 彼女はベンチに腰かけ、私に缶ビールを差し出す。私も同じように缶ビールを前に出し、こつんと缶と缶をぶつけた。


「乾杯」


「一体何に?」


「うーん、そうね。桜嫌いにってとこかしら。」


 なんだそれは、そう思いながら1口ビールを飲む。少し抜けた炭酸と冷たさが口に流れ込む。苦味とのどごし、どれもが心地よかった。もう花の散った桜の木を見ながら、タバコを吸う。


「これがお花見よ。どう?好きになったでしょ?」


「できれば花を見たかったですけど。」


 もう一口ビールを飲む。4月の夜は冷えたビールにはまだ早い。だが、こうして彼女と乾杯できたことは少し嬉しかった。


「タバコを吸いながらビールを飲んでるのに、そんな細かいことまで気にしたら人生もう終わりよ?」


「花見に花がないことを気にしなくなった方が終わりだと思いますよ。でも、」


 そう言って、彼女を見た。


「ほんの少しだけ、楽しいです。少しだけですけど。」


 我ながら素直じゃない。


「少しだけ、ね?」


「ええ、少しだけ。」


 私を見て彼女がニヤリと笑う。そして葉を付けた桜の木を見て言う。


「綺麗ね。」


「ええ、とても。」


 あるいは桜の花を見るよりも。

 そう思った。彼女も同じことを思っている気がした。それは自意識過剰だっただろうか。それでも、思うくらいはいいだろう。

 タバコを吸いながらビールを飲む。じわりじわりと、タバコの火は終わりに近づいている。


「あなたの方が綺麗ですよ。」


 自然に、口から零れた。


「あら、ありがとう。」


 彼女の顔が赤いのは、照れていたのか酒気のせいか。



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