コーヒー
その日は結局、サンドウィッチを喫茶店で食べた後に少しの雑談をして別れた。私は自宅に帰り、日中にやった課題を提出して風呂を済ませた。時計の上でも一日が終わろうとしている0時頃、煙草を吸うためにいつものコンビニへと出かけた
近年の飲食に関する発展は目覚しい。
私はコンビニのレジに並びながらそんなことを考えていた。私は人並み以上にコーヒーを好んでいる、それがどれ程かと聞かれれば主飲料がコーヒーと言っても差し支えがないほどである。特にコンビニのコーヒーは100円とは思えないクオリティのものが手軽に飲めるので、最近は自分でドリップするよりも喫煙ついでに空いた片手で飲むことが多い。
手軽に飲めるからドリップしないのである、ほかの理由は断じてない。
そしてなぜ私が今こんなことを考えているかと言うと、財布の中身がコーヒーを買うなと言っているからだ。無論、100円玉すら入っていない侘しい財布を持ち歩いているわけではない。財布には2600円が入っており、使う宛もないのでコーヒーを買うには有り余る余裕がある。
しかし、先ほど喫茶店で切らしてしまったアメリカンスピリットを買うと630円。つまり、1000円札を崩さなければならないのだ。1000円札をを崩したくない。さらにこの財布に入っている野口さんは2枚ともピン札なのだ、なお一層使いたくない気持ちだ。しかし、資本主義社会の化身コンビニでは30円まけてなどと口走れば通報とまでは行かないまでも、好奇の目で見られることは避けられないだろう。どうしたものか。
もういっその事1000円札を使って仕方がないと思える程度の買い物をすればいいのだろうか。そう思いレジ横のホットメニューを確認するが、時は深夜0時。めぼしい商品は既に残っておらず補充される気配もない。
コーヒーを飲むか、飲まないか、それだけが問題だ。私の中のシェイクスピアが呟いている。
そんな時、聞きなれた入店音が深夜のコンビニに響いた。
「どうしたんだ青年。」
彼女のお出ましである。こんなしょうもない事で悩んでいたことを悟られまいと私は挨拶する。
「こんばんは。なんでもないですよ、コーヒーとタバコを買うところです。」
「それにしちゃあ、ずいぶん悩んでたみたいだけどね。」
見透かしたように彼女は言う。
「見てたんですか?」
「見てたわ、顎に手をあてて考え事をするなんて人がまだ存在してたなんてね。あなたきっと絶滅危惧種よ。どうしたの?」
「くせなんですよ、ほっといてください。もう解決したので大丈夫です。」
そう言って私はレジの店員にタバコの番号を告げた、続けてホットコーヒーのSサイズを1つ注文しようとすると横から彼女が口を出す。
「店員さん、コーヒーふたつで。どっちもMサイズにしてくれる?」
「かしこまりました」と礼儀の良さげな店員が応じた。
「ちょっと、僕はSで十分ですから。」
「私が奢ってあげるんだから文句を言うな。」
いつの間にか奢る話にまで発展している。どういうことだ。こんな辻斬りみたいにコーヒーを奢ってくれる人が世の中にはいるのか。
店員はコーヒーカップをふたつ差し出し、あっという間に彼女が会計を済ませている。
「ありがとうございました」そう言って店員は彼女にレシートを手渡した。
「ありがとうございます。でも、お金ははらいますよ。」
「いらないわ」
私が、でも、と口に出すと
「たまにはカッコつけさせて。」
遮るようにそう言って彼女は微笑んだ。
思わず私は見蕩れてしまった。こんなに可愛い顔でかっこいいことを言わないで欲しい。
「じゃあ、ありがとうございます」
照れ隠しも含めてお礼を言った。
「それでいいの。年下なんだから、余計なこと考えないで。お礼が言えればそれで十分。」
そう言って、ターコイズブルーの箱とカップを手渡した。
それからコーヒーをマシンから抽出し、2人で喫煙スペースに向かった。
いつものように彼女に火を貸し、白い煙が宙に舞う。
「そういえば君、最近もコーヒーは自分で淹れるの?」
彼女は尋ねた。いつだったかしたそんな話を覚えていたのだろう。
「最近は淹れてないですね、なんだか面倒で。」
これは嘘だ。
コーヒーを自分で淹れる時間というのは何物にも替えがたい価値があると、私は今も思っている。ケトルに水を入れ沸かす。豆を挽き、フィルターをセットする。カップを温める。少量の湯で蒸らしを行い少しずつコーヒーが抽出される。そんな過程は決して嫌いではなかった。インスタントのコーヒーでは得られない何かが、確かにそこにはあった。
「ほんとう?」
「本当ですよ。」
コーヒーを1口飲む。この時期の夜はまだ冷えるが、このくらいの気温だとコーヒーがさらに美味しく感じるような気がする。タバコを吹かし、タバコを吹かす彼女を見た。
「私、人の嘘ってすぐ分かるのよね。」
ニヤリと笑いながら彼女は言った。その顔には私が嘘をついているという確信が含まれていた。
「コーヒー1杯の恩で白状しなさい?」
「勝手に奢っておいて卑怯ですよ?」
私は苦し紛れに言った。しかし彼女が引く気配はない。私は溜息をついた。
「コーヒーを自分で淹れるって話をした時と今の僕。決定的に異なる部分がありますよね?なんでしょう?」
「彼女がいるかいないか。」
即答された。
「その通りです。コーヒーミルもドリッパーもその元カノに貰ったんですよ。失恋を引きずってる訳ではありませんけどなんだか使う気にならなくて。」
恥ずかしい、こんなダサい理由を自分の口から零さなくては行けないなんて。
案の定彼女は笑った。
「失恋を引きずってない人は『失恋を引きずってる訳ではありませんけど』なんて言わないわよ、まだ引きずってるのね。」
「3ヶ月経てばある程度気持ちも落ち着くと思ってたんですけどね、どうにも上手くいかないものです。」
「振られたあと呼吸するようにため息ついてたのが懐かしいわ。」
コーヒーを1口飲む。そして2本目のタバコに火をつける。Mサイズのコーヒーに合わせるとどうしても2本目のタバコに手をつけざるを得ない。だからSでよかったのに、そう思いながら彼女を見ると、既にタバコをくわえていなかった。彼女にマッチを差し出した。
手に持ったタバコを見ながら私は思った。喫煙しているようなクズは振られて当然だ。付き合っている間は隠していた煙草に春は気づいていたのだろうか。
「新しい彼女でも作ってさっさと忘れなさい。」
「しばらく恋愛はいいですよ、好きな子だって気になる子だっていませんし。」
「甘いわね、好きな子と出会って、片想いして、恋愛して、なんてのが許されるのは高校生までよ。」
「希望のないこと言いますね、じゃあここから先はどうすればいいんです?」
「この子ならまあって子と適当に付き合って、嫌な部分に目を瞑って瞑られて、妥協して妥協されて、そうやって生きて行くのよ。」
「希望どころか夢もないですね。白馬の王子様を待ってる子の方がまだ可愛げがありますよ。そんな事じゃ行き遅れますよ?」
冗談交じりに私は言った。これだけ綺麗な人だ、それこそ引く手数多だろう。
「その時はあなたが貰ってくれる?こんな私を。」
思わず笑いながら応える。
「僕じゃ釣り合いが取れませんよ。祖父が言うには、人間というものは同じレベルの人間が集まりあっていて、結婚はその最たる例らしいですよ。」
「それじゃ私の結婚なんて、夢のまた夢ね」
「それはありますね、それこそ白馬の王子様でも現れない限り」
「それでも無理よ。」
なんという自信だろうか、私もこれだけの自己肯定感とそれに見合う人間になりたいものだ。
「大層な自信ですね。確かに、白馬の王子様じゃ格が足りません。」
「…でしょう?石油王くらいは連れてきてもらわないと。」
「やっぱり大切なのはお金ですか?」
夢も希望もないけれど、年を重ねれば重ねるほど金銭の価値を正しく認識している。
「そうね、お金で何もかもを買えるというのは過信だけれど、ほとんどの危機はお金があれば避けられるわ。自衛のためにも持っているべきよ。」
「なるほど、確かにその通りですね。」
私はコーヒーを飲む。財布の中のピン札云々でコーヒー一杯をためらっていた自分が愚かしい。
「でも、お金は墓の中には持っていけない。男性を選ぶ尺度としてはナンセンスかもね。石油王を連れてこいっていうのは失言だったわ。」
「墓の中の話を始めちゃったら何もかも終わりの気がしますよ。死ぬときは一人なわけですし。」
それをきいて彼女は微笑んだ。少し悲しそうな目をしていたような気がする。
「そうね、それでもきっと一人じゃなかったって信じたいけれど。」
私はどう返答すべきかわからず黙ってしまった。少しの間沈黙が流れた。
気づけばMサイズのコーヒーはほとんどなくなり、2本目のタバコもだいぶ短くなっている。タバコの火を消してコーヒーを飲み干し立ち上がる。
「そろそろ、行きますね。コーヒーとタバコご馳走様です。」
「ええ、お粗末さま。また、明日」
そう言って彼女は手を振った。
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