第10話 そして教師達の準備
ヘルデライバ学院を、ゴールディアの黄金血統――英雄ボウフェルの血を引くジャーチが設立してから五十年が経過していた。
それだけの年月が経過すれば、僅かばかりではあるが例外も発生する。
それは学院での全教育課程を終えても、島に留まり続ける存在。
「おい、戦術科主任」
教師の控え室に向かうハクオンの背中に、嗄れた声がかけられた。ハクオンは面倒くさそうに振り向くと、
「ディー先生。嫌味とはらしくないですね」
声をかけた男は、左目が刀傷で潰れた背の低い老人だった。馬上用のゴールディア製の毛織物の服を着込んでおり、それも持ち主同様かなり年季が入っているのか、膝と肘に牛革で継ぎ当てがされている。
名前をディーデルチといい、騎兵科の教諭である。元はソーレイト人であるのだが、熱心に騎馬戦術を研究するあまり、馬の呼吸と草原の気風をすっかり身に纏ってしまった異色のソーレイト人だ。
前学院長ジャーチを直接知る、最古参の教師でもある。
「よく嫌味だとわかったな」
「直接宣言した段階で、もう嫌味じゃありませんよ」
と答えるハクオンもソーレイト人だ。ディーデルチと違ってこちらは黒髪に黒い瞳とその種族的特徴を失っておらず、しかも若い。
それもそのはずで五年前に学院の全教育課程を終えたハクオンは、そのまま教師となり学院に留まった、今現在最も若い教師である。
藍色の着流しを愛用し、右手に煙管、左手の竹製の扇子。
まるで戦記物の軍師がそのまま抜け出てきたかのような出で立ちで、さらにその出で立ちを裏切ることなく今年から戦略戦術科の主任に抜擢された。
「主任とは言っても雑用係だからな。今年は模擬戦に力が入っている餓鬼共も多いし」
「まったくです。いい迷惑だ」
と言いながら、ハクオンが控え室の扉を開けると、操船科のコチ、築城科のオークル、そして砲術科のフェステンという教師陣が揃っていた。
部屋の広さで言えば、生徒五十人が入ったところで圧迫感を感じない、広さで生徒を威嚇できる、とまで言われた余裕のある間取りである。
教師に支給されている机も生徒達が齧り付いているような小さなものではなく、書き物をする広さや、小物の収納力まで何もかもが別次元の贅を凝らした造りだ。
その広大な空間にいるのは僅かに五人。ほとんどの教師は帰宅してしまっている。
もちろんここにいる五人も、さっさとここを立ち去りたいところなのだ。
砲術科のフェステンなどは特にそうだろう
フェステンもソーレイト人で、この中では唯一の家庭持ちだ。元はソーレイトの貧乏学者で、その日の食事にも事欠いていたが、学院に拾われた。
そして今は家族でこの島に住んでいる。
痩せぎすの男で、いささか頬がこけたその容貌には神経質さが伺えた。
ソーレイトの衣服の上からショールにもみえる短いマントを羽織っているが、その裾に細かな線が描かれているのもその印象を後押ししているだろう。なぜならそれは距離を測るための目盛りであるからだ。
暫定的ではあるが、この五人が今年の模擬戦の世話役であり、だからこそこうして居残っているというわけである。
「ハクオン先生、また煙管ですか? 戦史倉庫で煙管を使うのは危ないでしょうに」
目があった早々に、オークルがハクオンへと注文を付ける。
ハクオンはめったにこの控え室には姿を見せない。戦略戦術講堂の上にある戦史資料室に籠もりきりで、半ばその部屋を私物化していた。
謂わば書物に囲まれた部屋にいるわけで、そこで煙管のような火気を扱うのは、オークルの言うように危険な行為であることは間違いない。
「……その緊迫感が良いんですよ。迂闊に居眠りすれば間違いなく死ぬ。さりとて戦史に熱中しすぎて、我を忘れてしまえばやはり危険な目に遭う。分析には冷徹な精神が必要ですからね」
プカプカと煙を吐き出しながらハクオンが応じる。
この中ではオークルだけがハクオンを教えていない。だからこそハクオンにも苦言を呈する。他の教師達はずっと前に諦めていた。何しろハクオンは学生時代から講義中でもプカプカやっていた筋金入りの悪癖持ちだ。
「今日は何冊終わったんだ?」
不意にフェステンが話しかけてくる。
「前に聞かれたときからは、二冊ぐらいですかね」
「ぐらい……?」
「ああ、はいはい。二冊と二十一枚。文字数まで言いましょうか?」
「当然だ」
「七文字目。フェステン先生の存在も戦史に没頭できない理由ですね。有り難い話ですよ」
わかりやすく嫌味を言うハクオンだが、フェステンもそんなことでは挫けない。ここで折れるようなら、最初から貧乏はしないのである。
「物事を正確に行うのは、人を教えるときに重要な指針となる」
「そりゃ砲術科はそうでしょうね。俺だってそこは疎かにしようとは言いません。でも、戦場での湿度や風向きを掴むときは、すべてを正確に数値化できるわけじゃない」
「それは技術不足なだけだ」
「それに残念ですが、戦略戦術においては全てを数値化するは危険すぎるのでね。そして俺は戦略戦術科の教師だ。フェステン先生の生徒じゃありませんよ」
「よさんか。本当におぬしらはソリがあわんの」
ディーデルチがそこに割り込んだ。
教師と生徒の関係であった頃からこの二人には言い争いが絶えないのである。それでいて、ハクオンを学院の教師に強く推したのもフェステンであるのだ。
「ま、ま、とにかく今日は本番前の最後の準備です。手早く済ませましょう。コチ先生も何か言ってくださいよ」
「今日は潮の調子が良くない」
コチがまったく関係のない事を口にしたかに見えた。だが、それでいて全体の雰囲気が引き締まる。協調性が欠如しているコチは、会議だろうが打ち合わせだろうが、自分の用事があればそちらを優先させる。
コチが抜けてしまえば、この面倒な仕事がいつまで経っても終わらなくなる。つまり、じゃれあっている場合ではない。
動かないコチを基準にして、四人が適当に椅子を持ち寄って車座に腰掛けた。今日の議題は参加する生徒達の能力値の最終的な決定と、これから始まる一週間の模擬戦の審判役の当番である。
それをどこからはじめようか、と皆が一瞬間を置いたところで、
「――お茶入れますよ。それぐらいは役得がないとね」
最年少のハクオンが申し出た。全員がそれに鷹揚に頷いたので、ハクオンは立ち上がって控え室の窓際へと歩いていく。そこに煙突付きの火炉があるからだ。急須などの茶器もそこに揃っている。
ハクオンは水瓶から鉄瓶に水を入れると、火炉の上に鉄瓶を置いた。
水が沸くまでの間、ハクオンがなんとなく窓の外を見ると、学生達が広場に溢れていた。すでに全ての講義は終わっている。間もなく、その場所が戦場になるかと思えばなかなかに皮肉な光景だ。
ハクオンは、プカーっと煙を吐き出してその光景を斜めに見やる。数年前まではハクオンもその学生達の群れの中にいたのである。
ハクオンの眼が眩しげに細められた。
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