燃える記憶の向こう側、途切れ途切れに聞こえる僅かな声、か弱く今にも消えてしまいそうな、そんな声。私をただひたすらに呼び続けるその声の正体を、まだこの時の私は知る由もなかった。


 かねてよりの胃痛で今朝も目を覚ます。腹の奥が熱くなる感覚、嘔気がこみ上げる。寝癖もそのままに便所へ駆け込むと昨晩食した物を次々と胃から引っ張り出す。ドロドロに溶けて、酸い匂いが鼻を刺す。手櫛で髪を掻き上げながらリビングへと向かうと、テーブルの上にあった少し汚れたグラスを手に取り蛇口に当てがう。加爾基の混ざった臭い水を飲み干すとため息が出た。いつまでこんな日々が続くのであろう。クシャクシャのタバコを手に取ると火をつけ蒸す。頭痛、またこみ上げる嘔気。しかしそれはタバコのせいではなかった。誰かに呼ばれる声。段々大きくなるその声に呼応するかのように頭痛は酷くなる。めまいを堪えながら窓際へ行くとカーテンを開けた。日光が差し込み、網膜を焼き付ける。ふらついた拍子に腰を机の角にぶつけた。鈍痛を体が認識すると、声は消え、頭痛も治った。私は腰をさすりながら体勢を立て直すと、出かける支度を始めた。


 午後、ホームセンターへ出かけることにした。特に用もないが、ただ気が向いたからそうしたのであった。しかし、またひどい頭痛がした。店内を歩き回れば歩き回るほど大きくなるその声は、視点すら定まらないほどに脳内を引っ掻きまわす。脚立に腰掛けると、頭痛が過ぎ去るのを待った。少し落ち着いた頃、ふと文房具のコーナーに目がいった。便箋とボールペン、無意識のうちにそれを手にしていた。心が落ち着く、静まる。安らかな声が聞こえる。それは頭痛を伴わない。私には救済の光のようにすら感じた。会計を済まし、帰路に着く。開発し尽くされた街並みは高層マンションが立ち並び、嫌な西日を遮ってくれる。マンション群を抜けた頃、また頭痛がした。激しい頭痛。私を呼ぶ声。はっきりと聞こえた。


 私はやっと理解した。救いの声であった。それは私自身から発せられるものであった。うちに帰ることはもうないだろう。少なくともこの便箋を書いているこの瞬間、私は恍惚とした表情を浮かべているはずだ。口角がぐぐと押し上げられ、まるで感じたことのない快楽を得ている。今そこに道があるのだ。私を呼ぶ声は天に通じていた。頭痛の原因だと思っていたこの西日すらこんなにも美しく私に深い影を落としてくれている。あたたかい、久々だ。まるで胎内にいるかのような温もり。そろそろ行こう。呼ばれるままに、声の方へ。歩こう。

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