空白

⚠️この作品は、過去に執筆したものの、未完結のまま放置されていた文章です。

 続きはありません。ただの過去作供養です。


 以下、本文。




 私は、空白がとても恐ろしいのです。例えば真っ新なノートを開いた時、いったい自分がそこに何を描けるのだろうか、そう考えるのです。自分の今まで得た知識であったり経験などを書き記せれば良いのでしょうが、そういったものが一切ないのです。もちろん、本当に自分の人生が何もなかったわけではありません。それなりに楽しいこともあれば悲しいこともありましたし、他人よりも多くの経験をしているとすら感じることもままございます。しかし、いざペンを握ると何も書けないのです。何一つこの空白を埋めることができないのです。まるで私の人生そのものが空白であったかのように、このノートの真っ白が私にそう感じさせるのです。



  手紙


 八月のぬるい朝、やけに煩いカブの音で彼は目を覚ました。大体このような理由で目を覚ますときは決まって何やら手紙が届くときだ。そんなことを考えながら、もうすっかりセミの鳴き始める時分にもかかわらず眠い目を擦りながら底のすり減ったサンダルを履くと、殆どがガムテープで口を塞がれた集合ポストの前へ赴く。錆び付いて建て付けの悪くなったポストを開くとやはり一枚の封筒が入っていた。オンボロのポストと対照的に高級な封筒は差出人の几帳面さを示すかのように綺麗に封がしてあった。差出人の名前はナカハラ、宛名はカトウとなっていた。ナカハラ…はて、どこかで聞いたことのあるような名前だが、いったいどこで…。宛先人のカトウことこのボロアパートの住人はそのようなことをぶつくさと口ずさみながら自室へと戻っていったのであった。

 自室へと戻り、時刻がもう昼前頃だと気づくとカトウはふぅとため息をつき自らの作業用としている低いテーブルに向かい合うと何やら多様なペンを取り出し色とりどりの配色が施された紙に線を書き足しはじめた。実はこのカトウという男、一見すると小太りで髭面で、そのうえこんな時間に起きるところをみると所謂引きこもりなどと呼ばれそうなものなのだがこう見えて画家を志しており今もこうして線を書いては仏頂面をしてうーんと唸っているのだ。芸術家というのは変わり者が多いというのが通説ではあるがここでもその通りで、カトウは先ほどの封筒のことなどすっかり忘れてしまって目前にある一枚の紙の中の自分の世界に取り込まれてしまっていた。彼が気がつき、手紙を開くまでにここからおおよそ七時間以上かかるのだが、それまでの間に起こったことというと相変わらずペンを走らせては唸るだけなのでここでは割愛させてもらう。

 さて、そんなことで彼が過ぎたる時間に気づいたのはもはやセミもヒグラシほどしか鳴いておらず日は傾き窓からは橙色の陽がさした頃であった。

そういえば、今朝ごろ封筒が一つ届いていたな。彼は封筒の存在を思い出す。さて一仕事も終えたことだ、気はあまりのらないが目を通してみることにしよう。カトウは封筒を手に取るとまたしても宛名に目をやりうーんと、それは紙にペンを走らせていたあの時と一寸変わらぬ表情で唸り、頭をボリボリと掻いた。はたして、一体、この宛名とはこれ程まで唸るほど、中身よりも宛名に注目するほどには彼にとって気にかかるもので、それでいてまた何故か一切を思い出すことの出来ないような、そんな不思議なものであったのだ。

兎に角、中身を見ないことには何もわからないと意を決すると封筒を開く。中から顔を出したのは数枚の便箋と一枚の写真であった。


 カトウ様

 突然の便りお許しください。あなたとは今後一切関わらないと、そう決めておりましたが、この度事情が変わりまして、どうしても頼りにさせて頂きたいのです。私のことは覚えていらっしゃるでしょうか。高等学校で二年ほど同級であったナカハラです。

きっと添えてある写真をご覧になられれば思い出されると思います。あれから幾年か過ぎましたがきっと思い出していただけます。あなたともっとも親しかったのですから。この写真、右端にいる青髭の男があなたです、その隣に写る長髪を整髪剤で固めた男、これが私です。どうですか、思い出していただけましたか。もし、思い出していただけないならばこの便りは捨てて何もかも思い出せぬままお過ごしください。もし思い出していただけたなら、次からのページを読んでどうか私のことを助けてくださいませんか。

 私は、空白がとても恐ろしいのです。例えば真っ新なノートを開いた時、いったい自分がそこに何を描けるのだろうか、そう考えるのです。自分の今まで得た知識であったり経験などを書き記せれば良いのでしょうが、そういったものが一切ないのです。もちろん、本当に自分の人生が何もなかったわけではありません。それなりに楽しいこともあれば悲しいこともありましたし、他人よりも多くの経験をしているとすら感じることもままございます。しかし、いざペンを握ると何も書けないのです。何一つこの空白を埋めることができないのです。まるで私の人生そのものが空白であったかのように、このノートの真っ白が私にそう感じさせるのです。そうして私は気がきでなくいよいよと気狂いになってしまいそうなのです。どうしても私の気が確かなうちにこの命を絶とうと、そう考えてしまうのです。

 これほどまでに人生とは空虚なものなのでしょうか。なぜなぜ道ゆくあのスーツを綺麗に着こなしたおじさまや、ジーンズを履いたお洒落な大学生風の若者たちは、一度見れば忘れてしまいそうな無個性にも関わらずあのような実に愉快そうな顔をして、活き活きと歩むのでしょうか。もしかして、このような虚しさを覚えているのは私だけなのでしょうか。この言い知れぬ恐怖が、まるで暗闇の、光の見えぬ洞窟に一人で迷い込んでしまったようなそんな不安が常々脳裏を蠢くのです。そうしてもし、もしあの道ゆくスーツ男やジーンズ男がこうしてペンを握らされた時に自身の伝記を書くことのできるような人間であるならば、私はこの世界でもっとも虚しい生き物なのではないでしょうか。無個性と思われる道ゆく彼らにも書き記すほどの人生があるというのに私にはないのです。

 彼らにもし書き記すようなものがなければきっと私と同じように空白の恐怖に慄きあのような顔はできないはずです。きっとあるのです、彼らには人生が。私にはない、書き記せるほどの人生が。たとえ死んでしまっても他人の記憶に残るような人生があるのです。私にはないのです。ないのです。何ひとつ、何ひとつ何もかもないのです。一文でもこの空白を埋めれたならばきっとこのような恐怖は感じないはずなのです。このような決断をしなくても済んだはずなのです。どうか、頼れるのは唯一親しかった、私のたどれる限りの記憶で最後の友人であるあなたなのです。私の何でも良いのです。少しでも記憶に残っているならば私自身に私とは何なのかを教えていただきたいのです。 ナカハラ


 ページをめくるたびに文字が乱雑になりかなりの焦燥感が伝わってくる。カトウはそんな便箋を最後まで読み終え、添えられた写真をただじっと、それはいつもの仏頂面とは異なり、まるで猫の死体を見つけたときのような目で茫然と見つめ続けていた。

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