第10話和泉屋の猪四郎

「おきよ叔母さん、遊びに来たよ」


「もう!

 叔母さんと呼ぶのは止めてと言ったでしょう!

 確かに私は猪四郎さんの叔母だけど、猪四郎さんよりも年下なのよ!」


「でも叔母さんは叔母さんじゃないか。

 ご近所に変な噂を立てられないためにも、その辺を強調しておかないとね」


「もう!

 本当に口が達者なのだから!

 それで今日は何の用なの?」


「叔母さんが探していた蘭学の本が見つかったんだよ!

 それを見せたくてね」


「何ですって?

 直ぐに見せてちょうだい!」


 猪四郎は和泉屋喜平次の孫だった。

 次期当主となる長男の四男だった。

 幼い頃から才気に溢れていた。

 だが四男となると、家を継げる可能性はほとんどない。

 分家させて商売を始めさせるにしても、絶対成功するとは限らない。


 そこで和泉屋喜平次が考えたのが、御家人株を購入することだった。

 御家人株の相場は与力が千両、徒士が五百両、同心二百両とされている。

 直ぐに家督を継ぐ直養子にすると、与力株を千五百両、徒士は七百五十両、同心株に至っては三百両で購入できる。

 一石一両と計算すれば、孫を武士にできる上に、わずか十九年で元がとれる歩のいい投資なのだ。


 しかし同心には軍役や体面があり、遊興にふけらず普通にしていても、勝手向きが赤字になってしまう。

 そこで色々と口煩い武方の同心ではなく、不浄役人といわれるが、融通の利く町奉行所の同心株を猪四郎に買い与えることになっていた。


 才気溢れる猪四郎だが、どうも剣術だけは性に合わなかった。

 和泉屋喜平次と父親の思惑とは違い、読み書き算盤の方が得意だった。

 喜平次と父親は失敗したかと思い、改めて商家への養子や、分家を考えるようになっていたが、そこに猪四郎があることをささやいた。

 それにより同心株購入の話はそのまま進められることになった。


 そんな猪四郎が、何故叔母おきよの住む根岸の寮に通うようになったかといえば、これまた単純な話で、深雪にひとめ惚れしてしまったのだ。

 男装する深雪の姿は、本当は女だと知っている猪四郎の男心をくすぐった。

 いや、普通に女が好きな男だけでなく、衆道とか男色と呼ばれる者達の心まで強くとらえてしまっていた。


 特に猪四郎は深雪に魅了されてしまったといっていい状態だった。

 だからこそ、得意の読み書き算盤が生かせる養子の口や分家の話ではなく、同心になる話を進めたのだ。

 深雪を妻に迎えたい!

 その一心で南町奉行所の同心になろうとしていた。

 同時に毎日に深雪に会いに行く言い訳として、医師となりたくて本草学を学ぶ叔母の手伝いをしていたのだ。

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