第9話おきよ

 深雪が護衛を務める事になったのは、和泉屋喜平次の六女おきよだった。

 おきよは喜平次と妾の間に生まれ、とても美しかった。

 だが少々変わり者でもあった。

 この時代の女とは思えない趣味を持っていた。

 医術に興味があったのだ。


 だがこの時代に女が医師になるのは難しい。

 産婆ならともかく、医師になるには誰かの弟子にならねばならない。

 普通なら真っ当な医師が女を弟子に取る事は絶対にない。

 金を積めば弟子にしてくれる藪医者はいるかもしれないが、大切な娘をそのような藪医者の弟子にするなど、喜平次は絶対に許さなかった。


 そこでおきよは妥協した。

 諦めるのではなく、機会を待つために妥協したのだ。

 薬問屋を立ち上げたいから、本草学を勉強したい。

 薬草園を作りたいと、父親の喜平次におねだりしたのだ。


 喜平次は子供や孫が相手でも甘い人間ではない。

 無駄金を使うような人間ではない。

 それは子供や孫に使うお金も同じだ。

 札差を跡を継げるのは長男長孫だけだ。

 他の子供や孫は婿に出すか暖簾分けしなければいけないが、札差を暖簾分けすのはとても難しい。


 おきよはとても美人だから、持参金なしで嫁に出せる。

 これが不美人であったなら、最低でも百両の持参金が必要だ。

 それが江戸での相場になっている。

 美人の嫁をもらえば子供も美人が産まれる確率が高い。

 そうなれば将来娘の持参金を用意しなくて済む。

 だが不美人の嫁を百両の持参金付きでもらっても、将来娘が不美人で生まれたら、一人につき百両の持参金を用意しなければいけなくなる。

 嫁取ひとつも投資になってしまうのだ。


 おきよに色男の婿に迎えて、美人に生まれた孫を大奥に押し込むことも、おきよ自身を大奥に押し込む事も可能な喜平次だが、そのような投機的な事はしない。

 それよりはおきよに本草学を学ばせて、薬種問屋を開かせる方が確実だった。

 奉公人には十分な報酬を与えているが、独立したい者もいる。

 見どころのある者を婿にしてもいいと考えていた。

 主家とは橇の合わない、将来有望な薬種問屋の手代や番頭を引き抜き、婿にする方法もあると喜平次は考えていた。


 幸いというか、分家した子供に薬種問屋をしているものはいない。

 遠慮なく薬種問屋組合に喧嘩を売ることもできる。

 普通に組合に入ってもいい。

 だがそのためには、おきよが本草学を学ぶ事が大前提だし、貴重な薬草を自前で栽培出来る事が、既存の薬種問屋に勝つための方法だ。

 そう考えた喜平次は、小石川療養所の薬草園を、根岸にある寮で再現することも考え、実際に行動を始めた。

 だがその為には、おきよを安全な蔵前の店から根岸に出さなければいけない。

 そこで雇うことになったのが深雪だったのだ。

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